東京 closing down

現実とフィクションと楽曲が重なったとき、始まりのエンドロールが走りだす。 Photo by shun nishimu

7.足首 12/1 16:40

 

 

 

畳の匂い。

 

祖父母の匂いだ。

 

マッチをおこし、半分に折った線香を灯す。

ゆらゆらと昇る懐かしい薫りを目で追えば、経年を感じさせる些か黄ばんだ壁に祖母と祖父の遺影が並んでいた。


父方の祖父母は、自分の出生と同時に建てたという団地の一軒家で一緒に暮らしていた。

 

口うるさくて氷川きよしが大好きなおばあちゃんと、学校から帰るといつも野球の練習に付き合ってくれた厳しくも優しいおじいちゃん。

 

加えて、父と母と兄と自分、当時六人が暮らしていた一軒家は、2016年11月、ひどく静かだった。

 

 

 

祖母は中学二年生の九月に亡くなった。

 

照りつける太陽に残暑を恨めしく感じた土曜日の昼過ぎ、所属する野球チームの練習中に、「国貞、ちょっと来い」と厳しい事で評判のコーチから呼び出しを受けた。

 

小学生の頃から始めた野球もいつからか、センスと呼べるようなものは持ち合わせていなかったことに気が付き、他人を凌ぐ程の努力もしなかったことも相まって、ポジションは補欠、練習中でもしばしばエラーをし、くだんのコーチにはこっ酷く怒られていた。

 

そんな背景があるから、また何かミスでもしたかと走ってコーチの前で姿勢を正せば、救いようの無い一言を浴びせられた。

 

 

「お前はもう帰れ。」

 

 

例えば、「やる気あるのか」だとか「練習から外れてグラウンドを走っていろ」と言われるのなら茶飯事だったが、「帰れ」と言われたのは初めての経験だった。

 

これは相当まずいミスを気が付かず犯していたのだと「やらせてください」と声を張り、中学生なりの誠意を示した。

 

急に帰れと言われても自宅から車で三十分以上かかる練習場から歩くのはグラウンドの走りこみよりも酷であるし、迎えを呼ぶにも叱られて帰らされたと説明するのはあまりに情けなく、何よりそんな息子を持った両親が不憫だ。

 

 

「やらせてください」

 

 

「いや、おばあちゃんが危ないみたいだ。すぐに帰れ。」

 

 

コーチの後方のフェンス越しに、母親の運転する白の乗用車が到着するのが見えた。

 

 

広島市口田に祖母の入院する病院はあった。

 

母親に連れられ学生服姿の兄と病室へ急げば、会社を抜けてきたのであろうスーツ姿の父と、入院時から付きっきりだった祖父、叔母にあたる父の妹夫妻がベッドに眠る祖母を囲んでいた。

 

おお、とこちらに気が付き、いつものように軽く頭を叩いてくる父の笑顔はどこか寂しさと、”人の死”をおぼろげに感じさせるものだった。

 

話によれば、昨夜遅くに容態が急変し、いつ最期を迎えてもおかしくない状態であったらしい。

 

それでもこうして身内が集まるまで何とか持ちこたえ、相変わらずばあさんは賑やかなのが好きらしいと、祖父は温かく笑った。

 

真っ白で清潔感のある病室に泥のついた練習着で佇んでいることに若干の居心地の悪さを感じながらも、父に促されるまま祖母の手を握った。

 

ふくよかで歩くのも窮屈そうだった祖母の手は、驚くほど細かった。

 

よく食べ、よく眠る、そんな祖母の面影は、枯れそうな手指には感じることができなかった。

 

「おばあちゃん」と一言発したきり、喉の奥から漏れそうな何かを堪えることに精一杯で、口を開くことが出来なかった。

 

その数分後、祖母は息をひきとった。

 


 

八年の年月は、確かに目の当たりにした筈の光景でさえ、現実味の欠けたフィルム映画のように風化させる。

 

物が片付けられた和室を見渡す。

 

折り畳まれた介護用ベッド、ほこりを被ったプラズマテレビ、壁に立て掛けられた丸い机。

 

父が時折挿し替える花の供えられた仏壇に目を移す。

 

祖母にとって、自分はどんな孫であったのだろうか。

 

野球の練習がある朝には「ヒットヒットホームラン」と氷川きよしの歌に乗せ送り出してくれていた祖母の目に、自分はどう写っていたのだろうか。

 

自慢の孫で、あれただろうか。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 



高橋を殺しに行こう。

 

 

11月27日の日曜24時過ぎ、おれは決意した。

 

もはやこれは、高橋を殺すしかない。

 

あいつも、いきなりおれが広島に帰ってくるとは思ってないだろう。

 

それにしても、タチが悪い。

 

決意を固めるその一時間前、カップラーメンを啜っているタイミングで届いた一通のメッセージ。

 

普段連絡を取り合うような仲でもない中学の同級生、意外な人物からの一言は、おれを戸惑わせ、動かすだけの充分なインパクトを持っていた。

 

 

 

" 高橋が亡くなったらしい。"

 

 

 

こんなにもわかりやすくて、こんなにもわかりにくい文章はないなと、漠然と思った。

 

ああ、高橋か。

 

確か前に会ったのは盆明けに帰省した時だったかな。

 

上京する前から、同郷の友人である吉永と高橋とは、特に目的もなくコンビニに集まっては、だらだらと時間を過ごすことが多かった。

 

中学の頃からの仲で、いわば、親友だ。

 

特別なことはしなくていい、ファミレスやドライブやコンビニ、一緒にいるだけで楽しい、気の合うやつら。

 

高橋、吉永、国貞のグループラインでは、「はらへった」や「煙草吸おうや」などと理由をこじつけては「30分後に八木セブンね」と二つ返事で集合が決定していた。

 

高卒で就職した高橋の職場の愚痴、趣味である車やバイクの話、吉永の恋愛事情や夜遊びで親に怒られたエピソードのいじり、おれの童貞卒業報告もこいつらが最初だったし、怠惰な学生生活状況、中学校時代の思い出は飽きもせず何回も繰り返し話して、地元に中指を立てて、無事故無違反を謳いながらむちゃくちゃな運転をする高橋を、吉永と一緒に笑った。

 

ああ、その高橋が亡くなったのか。

 

わからない。

 

いや、頭ではきっと理解はしている。

 

”高橋”が、”亡くなったらしい”、それだけのことで、こんなにわかりやすい文章はない。

 

それにしても、なんというか。

 

タチが悪い。

 

 

これがもし高橋を中心とした地元ぐるみのドッキリだったとしたら、そのときは高橋を殺すしかない。

 

わかった、吉永と結託して、高橋を殺そう。

 

お前ふざけんなよと、いつものセブンイレブンで煙草を吸いながら、まじうけるわと笑う高橋を、吉永と殺すしかない。

 

 

高橋を殺しに行こう。

 

 

そうなれば、まず吉永に連絡を取らないといけない。

 

時刻は24時を回っていた。

 

”高橋が亡くなったらしい”というタチの悪いメッセージを受け取ってから、一時間近く経過していた。

 

何を一時間もぼうっとしているんだ、早く高橋を殺しに行く段取りを決めるために吉永に連絡を取らなければ。

 

数回コール音が鳴ったところで吉永が応答した。

 

「もしもし、今大丈夫?」

 

「おん、どしたん」

 

「あんねぇ」

 

「おん」

 

「あのー、高橋がねぇ」

 

「うん」

 

「あのー、高橋が」

 

「高橋がどしたんや」

 

「あんねぇー、高橋が」

 

「なんや」

 

「そう」

 

「うん」

 

「高橋が、亡くなったらしい」

 

 

何をもたもたしているんだ。

 

さっさと吉永にこの壮大でタチの悪いドッキリを伝えて、高橋を殺しに行く計画を立てないといけないのに。

 

なに涙なんか流しているんだ。

 

 

「…」

 

 

不思議なもので、「高橋が亡くなった」と自分の口から発音した途端、それが急激に現実味を帯びてきて、それがとんでもない事実なんじゃないかって、喉が震えた。

 

こんなドッキリあるわけないだろと冷静に処理している自分に気付かぬふりして、高橋ふざけんなよと笑って突っ込む。

 

本来なら吉永に、「おい高橋が死んだとか言っとんじゃけど」って笑って、何なら若干キレ気味で伝えるつもりだったのに、口からそれを発する直前に、なんというか、現象だけ文字に起こすと、涙が出た。

 

これは困った。

 

俺は記憶に無いくらい、最後に泣いたのはいつだろうか、と思うくらい、涙を流していなかったのに。

 

涙を流せないほど、俺は東京という大都会の大海原に揉まれ流され、感情を失ってしまった血の通わないアンドロイドと化してしまったのか。

 

いや、そういえばこの前観たドラえもんの映画で結構な号泣をした。

 

しかもつい最近には彼女に別れを告げた際にも泣いていた。 

 

結構泣いているじゃないか。

 

まぁ、涙っていうのは、目的でも手段でもなくて、あくまで副産物的なものだ。

 

涙を流していないから感動してないわけでもないし、涙を流していないから悔しくないわけじゃない。

 

であるならば、逆説的に言えば、副産物である涙が流れるということは、その根源的な感情があるはずだ。

 

 

感動か、悔しいのか、悲しいのか。

 

悲しいんだとしたら、それは何故か。

 

 

“高橋が亡くなったらしい”から。

 

 

まったく。

 

まったく、タチが悪い。

 

 

思考が正常に回っていないことにはとっくに気づいていた。

 

冷静に俯瞰したおれ(闇遊戯的な)の言葉を借りれば、「現実から目をそらそうと必死」らしい。

 

何はともあれ、早く広島に帰って、吉永を誘って、今から一緒に、これから一緒に、殴りに行こうか。

 

ラーメンはとっくに、伸びきっていた。

 

 

 

 

話によれば、バイク事故らしい。

 

高橋は20時に仕事を終えたらしく、おれが訃報を受けとったのが23時過ぎだったから、その間のことだろう。

 

もっとも、おれを無理矢理東京から引き戻す壮大なドッキリでなければの話だ。

 

夜分遅くの失礼を承知の上、勤め先に数日間お休みをいただきたい旨を伝えて、小田急線と新幹線の始発の時刻を調べた。

 

全く機能していない夜中の交通機関に苛立ちを覚えながら、眠気なんて微塵もない覚醒し続ける頭をかき回した。

 

なんせ、こういった事態に直面したとき、どう行動するのが正解なのかなんて、学校では習っていない。

 

「皆さん、親しい友人が亡くなった際には、直ぐに帰省しましょう。」

 

なんて道徳の時間にも教わった覚えはない。

 

 

とりあえず、高橋と交友のあった友人知人に連絡をとった。

 

その都度、“亡くなったらしい”と不確定で信憑性の乏しい情報を伝え続けた。

 

そのうち、ああ本当にアイツは死んだのか、と、真実に麻痺していく自分に腹が立った。

 

 

 

特にすべきことも見つからず、始発まで余裕の有り余る時間に家を出て、最寄りの松屋に向かった。

 

松屋はいつ訪ねても只の牛丼屋で、食券と引き換えに提供されたプレミアム牛めしも只の牛丼だった。

 

みそ汁は熱いし、紅生姜は旨いし、こんなときでも松屋はどこまでも松屋だった。

 

 

電車を乗り継いで東京駅に向かい、口座から家賃を切り崩して切符を買い、全く眠気の無い片道四時間を過ごした。

 

 

広島に到着し、高橋は病院から実家に戻ってきているとの連絡を受けた。

 

自宅を訪ねる承諾を得て、母親の車を拝借して、懐かしい道をたどり走った。

 

 

思い返せば、小学生の頃から何度も高橋の自宅を訪れたことがあるが、玄関より先に上がったことはなかった。

 

 

階段を登り、右に折れた和室の引き戸を開けた。

 

 

 

なんだ、高橋、おるじゃん

 

 

なに寝とんや

 

 

次に広島帰るの年末とか言いよったのに、割とすぐ帰ってきてしまったわ

 

 

お前なんしとんや

 

 

吉永と一緒に、殴りにきたで

 

 

あ、吉永連れてくるの忘れたわ

 

 

 

膝から崩れ落ちるように、畳に顔がこすれた。

 

 

 

お前、なに寝とんや

 

 

 

だってそれはどう見ても、いつもの寝ている高橋なのだ。

 

少し揺すれば、目をこすりながらあくび混じりに「おお、たくじゃん、どしたん」と起きてきそうではないか。

 

 

 

おい、ふざけんなよ

 

 

お前、なに死んどんや

 

 

 

浴びせるはずだった罵詈雑言が、車の中で考えた冗談が、言いたかった言葉が、そもそも声が、出なかった。

 

 

まったく、タチが悪い。

 


 

 

そのあとは吉永を連れたり、高橋に会いたいという同級生と連絡をとったり、旧友と電話したり、比較的冷静に過ごした。

 

葬儀の一連は、悲しみを忙しさで紛らわす目的もあるといった話を思い出した。

 

少なからず自分もその恩恵を受けているんだなと、思った。

 

 

 

翌日はお通夜だった。

 

スーツを兄貴に借りるも、シャツとベルトと革靴がなくて、前のバイト先で後輩から革靴を借りて、シャツとベルトは紳士服店で新調して、ごたごたしながら会場に到着すると本当にたくさんの人がいた。

 

同級生はもちろん、その両親、小学校時代の野球のコーチもいたし、車仲間であろう髪の明るい人たち、会社関係者。

 

おれの高校の友達も来てくれていた。

 

高橋を紹介して一緒に遊んだ仲だった。

 

数回しか会ったことがないやつも、「友達の友達は、友達だろ」といって駆けつけてくれた。

 

おれが言うのもおかしいけど、本当にありがとうと伝えた。

 

ある同級生の言葉を借りれば“ほら吹き”だったあいつも、なんだかんだ好かれていたらしい。

 

 

 

その翌日はお葬式。

 

その日も多くの人が参列していて、例によって高校の友達も来てくれた。

 

 

でもやっぱり、こういう場が苦手だった。

 

焼香の意味なんて知らないし、そもそも宗教に興味がない。

 

浄土真宗がどうだとか、お坊さんの読経なんてワケがわからないし、相互扶助の目的かもしれんけど香典だって本来は故人への供物だろう。

 

 

生前に高橋が、「お釈迦が―」とか、「親鸞が―」とか、「阿弥陀如来が―」とか語ってたんなら、しょうがない。

 

それどころか「彼女のクリスマスプレゼントが―」とか言ってたろ。

 

 

決して、否定的な意味ではないんだけど、漠然と、宗教の自由を感じる。

 

「今ごろ天国で―」とか聞くけど、天国すらキリスト教の考えだからもうワケがわからない。がんじがらめ。

 

かといって、おれが死んだときに葬式しません!とか言い出したら嫌だけど。

 

まあなんというか、ガチガチに縛られずに、こんなときだからこそ頼ったらいい、心のより所として、くらいの位置付けで、宗教っていうのは、もっとラフな感覚でいいんじゃろうね。

 

 

 

おれは同級生の為でも、ご遺族の為でも、世間体の為でもなく、紛れもなく、高橋個人の為に出席した。

 

 

だから読経なんて聞き飛ばして、焼香なんてすっ飛ばして、棺桶覗いて、お前ふざけんなよ!って笑いたかった。

 

 

だってなあ、そんなお互いを褒め合うような仲でもないし、帰り際に家まで送り合って「また会おうね!」って言う仲でもないし、

 


死んだからって、仮に最後だったとしても、いつも通りでいたかった。

 

 いつも通り、吉永と煙草吸いながら、笑いたかった。

 

 

 

ところが変に常識を意識して、ちゃんと黙ってお坊さんの話を聞いて、皆に倣って作法の知らない焼香済ませて、棺桶覗いて悔しそうに下唇噛んで、親族に頭を下げて。

 

 

いくら高橋の為とは言っても、ご遺族の皆様の、その心中は甚だ察することなんてできないし、ご両親やご兄弟とも昔から面識があったから。

 

 

 

誠に、ご愁傷様でございます。

 

心から、お悔やみ申し上げます。 

 

 

 

それ以外の表現を、俺は知らない。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

線香の灯火はゆっくりと身を削っていた。

 

陳腐な例えをすれば、人の一生も似たようなもので、激しく輝きながらあっという間に燃え尽きるものもあれば、静かにゆっくりと最期を迎えるものもあって、その中でも高橋は元から短い線香だったんだろうと。

 

 

なんて話、あるわけがない。

 

 

確率や運命なんてものが嫌いだ。

 

そういう運命だった、なんて結果論に依存した言い訳なんて御免だ。

 

 

そんなの、浮かばれないじゃないか、あまりにも報われないじゃないか、どうしようも、ないじゃないか。

 

かといって代替案はない。

 

それでも、俺は嫌だ。

 

 

 

祖父母の部屋であったこの和室には、2012年10月から捲られていないカレンダーが掛けてあった。

 

仏壇屋のもので、筆文字でこんな言葉が書かれている。

 

 

『明日を思い煩うよりも、今を如何にすべきかが大切である。』

 

 

――大切である。

何様のつもりだ。

何をもってして、そう言い切れるのだ。

 

数ヶ前読んだときには身に染みた言葉も、今は苛立ってしょうがない。

 

すべてに腹を立てていた。

 

 

親友が亡くなった。

 

それから数日間は、引きずった。

 

高橋の死とまるで関係がないのに、自分の将来や、あらゆることがどうでもよく感じた。

 

不安を通り越して諦め、腹を立て、煙草を吸った。

 

 

かといって、普段の生活に大きな変化はなかった。

 

冷たくなった高橋を確かに目の当たりにしたはずなのに、電話したら眠たそうに出るんじゃないか、とか、ライン送ったら返ってくるんじゃないか、とか、コンビニ呼んだらすぐ来そうじゃな、とか、思う。

 

 

高橋と吉永とおれ、三人のグループラインは、今でも既読が1のままなのに、あいつが最後に送った“動くスタンプ”は妙に現実味を無くさせる。

 

何回もタップして、動かしてみると、なんだ、生きてるじゃないかって、馬鹿みたいに思う。

 

 

でも、ふとした拍子に、気づいてしまう。

 

ああ、高橋はもういないのか。

 

 

単純に、遊ぶ友達が一人減ってしまったとも思えるし、心にぽっかりと穴が空いてしまったようにも思えるし、自分でも整理ができない。

 

“悲しい”だけで形容したくない、よくわからない類の感情で、言葉で表現できないことに戸惑った。

 

 

 

ただ一つ確実なのは、二度とこんな経験はしたくない、それだけだった。

 

 

 

でも、いつでも会えるらしい。

 

浄土真宗では、死んだら天国でも地獄でもなく、お浄土に行くらしい。

 

お浄土ってのは、誰しもの心の中にあって、目を閉じて手を合わせれば、いつでも故人に会えるらしい。

 

吉永と二人で、五,六回はこの話をした。

 

まあ全部 “~らしい” 話だから恐ろしく信憑性に欠けるけど、どっちにしてもおれの心の中に高橋がおるのは気持ちが悪い。

 

高橋ふざけんなよ!

 

と、目を閉じ、手を合わせて、おれは言うらしい。

 

セントラルパーク ダコタハウス前

来世はそこで落ち合おうぜ

 

おれは真似て言うらしい。

 

あくまで、そうらしい。

 

 

 

仏壇を前に、慣れない正座に両足がしっかり痺れているのがわかった。

 

 

なにをやってるんだ、おれは。

 

 

ここ最近で何度、同じことを呟いたんだろう。

 

 

いっそ、このまま広島に残って、柴犬と暮らそうか。

 

 

でもなあ。

 

 

悔しい。

 

 

いろんな思いはあるけれど、根底にあるのはそれだけだった。

 

 

悔しい。

 

 

このまま終わってたまるか。

 

 

自分自身ですら精一杯であるのに、高橋の分まで生きれるとは思えないけど

このまま死んだとき、ご浄土で高橋に馬鹿にされてしまう。

 

 

「たく、なんしとんや」

 

 

なめられたもんだ

 

 

たとえ今がどん底だとしても、海底の砂を蹴って、トビウオのように海面を跳ねてやる。

 

 

おれは東京、大都会という大海原で、流されながらも、流木でいかだを作るんだ。

 

ボロボロのTシャツで帆を張って、がむしゃらに漕ぎ続けるのだ。

 

 

パドリング、ひたすらパドリング。

 

 

モンスター級の大波を見事にサーフィンして見せて、満を持して広島に帰るんだ。

 

 

砂浜でご主人の帰りを待っている忠犬ハチ公顔負けの柴犬を目いっぱい撫でてやる。

 

 

海底で拾った海賊船のお宝を売って、軽トラックを買うんだ。

 

 

助手席の窓を半分開けて、気持ちのよさそうに顔をのぞかせた柴犬を乗せて、凱旋パレードだ。

 

 

 

その日が来るまで、おれにはまだ出来ることがあるだろう。

 

 

がんばれ、たくろう。

 

 

痺れる右足を堪えながら、片膝を立てる。

 

 

ご浄土で高橋に罵詈雑言を浴びせる為には、こんなところでくたばるわけにはいかないだろう。

 

 

頑張ってやろうじゃないか、たくろう。

 

 

立てた右膝に手を突きながら、痺れを受け入れてゆっくりと立ち上がった。

 

 

そして、さんざん宗教の悪口を言っておきながら、手を合わせて目を瞑る。

 

 

 

なあ、高橋。

ご浄土にはセブンイレブンがあるのかい。

 

 

 

膝から崩れ落ちるように、畳に顔がこすれた。

 

 

涙は出ていない。

 

 

ただ、足がもの凄く痺れただけだ。

 

 

それだけだ。

 

 

16:40

6.夜が明けたら 9/24 0:13

 


夜の帳は、地面に残った子供達の痕跡を包み込むように辺りに鎮座していた。

ブランコと鉄棒、タコの形をしたアスレチックの遊具が設置された第二公園の一角、手狭なグラウンド脇のベンチに栄治は陣取っていた。

Tシャツに羽織ったパーカーのポケットからラッキーストライクを取り出すと、一本に火をつけて月が霞む夜空にゆっくりと煙を吹きかけた。

 

昔から不良が多いと有名な此処近辺では、その名残を受け継いでか最近になっても原付にがに股で跨がった未成年の集団を見かけることが多い。

ここ第二公園も、その集会場所として使用されることが多かったことを懸念していたが、26時を回った今夜の公園に栄治以外に人影は無かった。

 

気が付けば、遠くの方で虫が鳴いていた。

ずっと前から鳴いていたのかもしれないし、たった今鳴き始めたのかもしれない。

時季を感じさせるその響きは、懐かしいような既視感と、季節の終わりを告げる物寂しさを含んでいた。

 

四隅にある入り口の内、遊具側から莉菜が歩いてくるのが見えた。

足元で煙草をもみ消すと、一つ深呼吸をした。

 

「自分で呼び出しておいてなんだけど、まさか本当に来るとは思わなかった。」

 

「じゃあやっぱり帰ろうかな。」

 

冗談だよと笑う栄治に毒づきながら、莉菜はベンチの隣に腰掛けた。

 

「今日は面倒な客は来なかった?」

 

「面白い客なら来たけどね。」

 

軽く雑談を交わし、ひと段落落ち着いたところで栄治は話し始めた。

 

「俺は夜が嫌いだよ。暗くて周りが見えないのをいいことに、余計なことばかり考えてしまう。」

 

ため息混じりに力無く笑った。

 

「私は夜、好きだけどな。」

 

少し間を置いて、莉奈は返した。

 

「みんなが寝静まった夜なら、誰にも干渉されずにいれるから。

 いつも思うんだよね。このまま、夜が続けばいいのになって。明日なんて、来なければいいのになって。」

 

そう憂う横顔は儚く脆く、そして綺麗だった。

 

考えたこともなかった。

 

このまま夜が続いたとすれば。

屏風に描かれた虎を縄で縛ることは一休でも不可能だ。

 

でも、栄治にとって苦痛であるそれだとしても、彼女が望むのなら。

明日が来ないことを、莉奈が望むのだとすれば。

 

「じゃあ、ずっと起きていようよ。」

 

目を合わさず、靴のつま先を見たまま言った。

 

「ずっとこのまま話をしていればさ、いつ明日が来たのかわからないよ。」

 

 欠けた月が、公園の二人を仄かに照らす。

 

「じわじわ夜明けを見させられるなんて、ただの拷問だよ。」

 

そう尖りながらも、どこか楽しそうに莉菜は笑った。

 

「いいの私は。もうさ、何かを期待したり、何かを追いかけたり、なんか疲れちゃってさ。

 例えばサラリーマンの父親がさ、こう在れと説いたところで、父親の人生としての正解か不正解がサラリーマンだっただけで、それ以外の人生を知らない人に語れることはないと思うんだよね。

 60歳の人が20代としての生き方を若者に説いたところで、その人にとっても二十代は一度しか経験してないことでしょ、最初の一球だけでピッチャーは評価できないよ。

 何歳であろうと、生まれ変われない限り、みんな人生のアマチュア。

 だったら、正解なんてわかるはずがないし、もちろん、わかるものであっても困るんだけど。」

 

微笑みを浮かべる口元からは、おぼろげな諦念が感じ取れた。

それを見て、莉奈と周りの友人を比べたときに感じる違和感の正体がなんとなく、理解できた気がした。

 

それは達観と言うよりも、理解を諦めた、純粋であって推し量ることのできない、紛れもない諦念だった。

 

「莉奈って、なんだか大人だね。」

 

片や自分のことで精一杯であるのに、人生についてここまで考えて、自分なりの結論を導いている存在を横目に、居心地の悪さを感じた。

 

最初の一球だけでピッチャーは評価できない。

確かにそうだ。

だとすれば、自分にとって22歳はボール、じゃあ来年は、ストライクを投じることができるだろうか。

 

「栄治はさ、大人って、どういうことだと思う?」

 

莉奈は栄治の方を見ることなく、尋ねた。

 

「20歳を越えたら社会的には成人として認められているよね、お酒も煙草も買えるようになるし。」

 

「なら、栄治は自分が大人だと思う?」

 

「それはどうかな、成人として自覚って言うか、子どものままじゃいけないなって思いはあるけど、やっぱり親父とか先輩とか見てるとまだまだ子どもだなって感じることもある。」

 

「私の考えるところはそこであってね。

 例えば、その栄治の先輩にしたって、そのまた先輩のような存在があれは何歳になっても「まだまだだな」って思うことがあると思うんだよね。」

 

「うん。」

 

「法律とかを抜きにしたときの“大人”っていうのは、年齢は関係ないと思う。

 だって、さすがに50歳になって子どもっていうのは無理があるし。」

 

「それはそうだ。」

 

「つまりね、大人になる瞬間っていうのは、誰かに「大人だな」って認められたときなんじゃないかなって。

 さっきの先輩の件にしたって、年齢云々を抜きにして後輩に“大人”って思われたときがそれに値するんじゃないかな。

 言ってしまえば、バイトの後輩に大人ですねって思われた時点でその人はもう大人なんだ、ってね。

 こればっかりは、年齢を無視したとき明確に線引きすることは難しいけど、

 狭義での”大人”っていうのは自負とか自尊じゃなくて、他人からの評価なんじゃないかな。

 他人に大人だって思われたとき、その他人にとってはその人はもう大人なんだよ。」

 

栄治は意見を持てないで腕を組んで夜空を見上げていた。

 

誰かに認められたとき。

今の自分を、誰が評価してくれるのだろうか。

 

騒がしい声が耳に入り込んできた。

今夜もやはり未成年の集団がやってきたのかとうんざりして声の方に目をやると、「高崎お前はな」と高崎の首に腕を回した年嵩の男と、それを見ながらげらげらと笑う男が公園へ入るところだった。

確認するまでもない、高崎とは昼間の学生、げらげら笑っているのは店で眠っていた男、今夜来店した三人組だった。

 

相当酔っているのだろう、肩をぶつけ合いながら、歌っている。

 

飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで

飲んで 飲みつぶれて 眠るまで 飲んで

 

 

「公園は憩いの場所です。」

 

同じ様にその光景を眺めていた莉奈がぼそっと呟くので、栄治は少し笑った。

 

「全く、参ったなあ。」

 

タコのアスレチックで心底楽しそうに走り回るいい年の男達の姿に、馬鹿みたいだと莉奈の口癖を真似て吐き捨てる反面、そんな仲間が居ることに若干嫉妬した。

 

漠然と光景を眺めていると、急に高崎が地面で腹筋を始めた。

それを見ながらあとの二人はげらげらと笑っている。

 

「荻原さん、こんな腹筋したって、何の、意味も、ないんじゃない、ですか」

 

高崎は律儀に腹筋を続ける合間に、抱いて当然の疑問を投げかけた。

 

「努力せん奴に成功はないねん。」

 

”荻原さん”なる男は、さも正義側のように毅然として言い放った。

 

「この努力が、報われるときは、果たして、来るのかな、拓朗」

 

拓朗と呼ばれた男はげらげら笑うだけだった。

 

「確かに、努力は必ず報われるとは限らんけどな。
 
 でもな、成功する奴は必ず、努力しとんねん。」

 

荻原さんは満足気に深く頷いた。

 

「俺今エエこと言ったな、お前今から家帰ってノートに百回書いてこい。」

 

指名された拓朗はげらげら笑いながら公園から姿を消した。

しばらく腹筋を続けた高崎は、徐ろに話し始めた。

 

「昨日、バイト前に、趣味が同じだって、連絡くれた人と、会ってきたんですよ」

 

遊具に腰掛けて煙草に火をつけた荻原さんは、黙って高崎の話に耳を傾けた。

 

「自分嬉しくて、その人、話すことも頭よくて、俺の為に言ってくれてる、って思うと、何か、裏切れないなって」

 

ペースを落としながらも、高崎は腹筋を続けた。

 

「俺はそいつがどんな奴かもわからへんし、お前が何を言われたんかもわからんけどな。

 でもな、高崎が信じてもええって思える奴なら、そうしたらええねん。

 仮にそいつが悪い奴やったとしても、こいつになら騙されてもええって思える奴なら、

 信じてやったらええやん。」

 

「俺馬鹿だからそういうの鈍いんすよね。

 でも、その人はきっと”いいやつ”ですよ。

 あの映画が好きな人に、悪いやつはいないですから」

 

高崎は地面に仰向けになってえへへと笑った。

 

「なに勝手に腹筋やめとんねん」

 

荻原さんは馬乗りになって高崎の脇腹をくすぐった。

 

「やめてください、やめてください」

 

がははと二人は笑いあった。

 

 

「なに、あれ。」

 

莉奈は我慢できないといったように吹き出した。

 

許されたいから許すのは、間違った思想かもしれない。

 

今まで傷つけた分だけ、いつかの誰かを救えるわけもないかもしれない。

 

でも、でも。

 

でも、夜が明けたら。

 

この夜が明けたら。

 

許されるような、そんな気がして。

 

今日だけは、この夜明けを、彼女は望んで迎えてくれるような、そんな気がして。

 

「ほんと、馬鹿みたいだ。」

 

明日、高崎に連絡しよう。

 

頬を伝う涙に、きっと莉奈は気がついているのだろう。

 

その横顔は相も変わらず儚くて、触れたら壊れてしまいそうだけど、諦念のない微笑みに、救われたような、そんな気がした。

 

 

夜が明けるよ

 

夜が明けるよ

 

ほら、夜明けだ

 

 

きっと彼女は、こう言って笑ってくれるだろう。

 

 

「馬鹿みたい。」



 

====================================



 

街灯のまばらな夜道をふらふらと、帰路を辿った。

 

飲んでー、飲んでー、 飲まれてー、飲んでー

 

河島英五の“酒と泪と男と女”、名曲だ。

 

飲んでー、飲みつぶれて眠るまで、飲んでー

 

宅配寿司屋の飲み会帰り、きっと荻原さんと高崎はキャバクラに行ったのだろう。

 

俺はと言うと相も変わらず金欠病を患っているからとその誘いを断り、一軒目で早々に退散したのだった。

 

 

もしかしたら、二軒目以降でこんなストーリーがあったのかもしれない。

 

そうだな、ネズミ講にハマった栄治くんに、何かを諦めた莉奈ちゃん。

 

莉奈ちゃんの口癖は、きっとこうだ。

 

 

 

馬鹿みたい。

 

 

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0:08

5.The SEA 9/24 1:01



 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

 

「安定安定って世間ではよく言いますけど、アンテイってどういう字を書くか知っていますか。」

 

目の前にいる世間もよく理解していない“幸せ”な学生を眺める。

羨ましく、恨めしく、いたわしい。

 

「安く定められている、と書いて安定と読むんですよ。そんな事にも気が付かず、安定だと騒ぐのは正直、馬鹿ですよ。」

 

よく言うよ。

本当に馬鹿なのは自分だ。

あのメッセージさえ無視していれば。

悔やんでも悔やみきれない程には、もう手遅れだった。

 

交友も講義も惰性でこなすようになった大学三年の時分、賢二さんからSNSを通じてダイレクトメッセージが届いた。

他大学生からの突然のメッセージに驚きつつも、こんな出会いもあるのかと浮かれていた自分の愚かさを憎む。

 

連絡をとる気になったのは、同じ漫画が好きだとわかったからだ。

確かに万人受けする内容では無いが、独特の世界観に引き込まれるその作風は、友人の間でも自分くらいしか好んで読む人間はいなかった。

共通の趣味があることで意気投合し、心を許すまでもそう時間はかからなかった。

 

何通かメッセージを交換した後、賢二さんとカフェで会う約束をした。

そして、おいしい話があると聞いたとき、自分だけに教えてくれたのだと嬉しくなった。

 

安定っていうのは、どういう字を書くか知ってるか。

安く定められているって書くんだ。

そんな世界に喜んで飛び込んでいくなんて、馬鹿のすることだ。

 

騙されているなんて、疑いもしなかった。

 

 

「収入を水、仕事を用水路だとしますね。あなたの住む家に、川から水をひく用水路を作ります。」

 

持参したペンでノートに一本の川を描き、少し離れたところに家を描く。

そして川と家を一本の線で繋いだ。

 

「この線が用水路、収入を得る為の定職です。これが太いと多くの水、つまり収入を多く得ることができ、細いと得られる水も少なくなる。世間では、これが太い事を安定と呼びます。」

 

目の前の学生は顎をこすりながら、なるほどと言ったように頷いた。

 

「でも、その安定だという仕事だって途絶えてしまえば収入はゼロになる。」

 

用水路に、斜線を引く。

 

「これのどこが安定ですか。会社が潰れたり、クビになったり、自分は大丈夫だという保証はどこにもありません。」

 

用水路の絶たれた家の隣に、もう一つ家を描く。

 

「真の安定と言うのは、一本絶たれても他に三本四本、収入源がある姿のことです。」

 

新しく描いた家に、川から四本の線を繋げ、その内の一本に斜線を引く。

そして残った三本を繰り返しなぞり、強調する。

 

「この用水路、つまり収入源を増やすお手伝いを、僕たちはしています。」

 

ペンを置き、とうの昔に冷めきったカフェラテで喉を潤す。

 

「時代は変わります。一つの定職だけで安心する時代は終わろうとしています。そうなったとき人々はどうするか。それはここに書いたように、副収入を求めます。でも気付いたときには遅いでしょうね。周りには失業者ばかりだ。」

 

先程から学生は唸ったり、感心したように頷いている。

こんな学生ばかりで、日本の未来が本当に心配になる。

 

一年前の自分が、目の前の学生に重なる。

そんな話あるわけないと、目の前からさっさと姿を消してくれと願いながら、愚かだった自分の影を前に、あの日の賢治さんになりきる。

 

いいか、経済はバブルで一度底を打った。

そこから今、徐々にではあるがまた上昇傾向にある。

でもな、それも長く続かないことは誰の目から見ても明らかなんだよ。

あの漫画が好きな栄治は悪いやつじゃないってわかる、だから栄治には特別に教えといてやるけどな。

 

そう言いながらにやりと笑う賢二さんに、俺は幸運だと噛み締めたのを覚えている。

 

「僕も来年就職しますが、もちろんそこだけで収入を得るわけではありません。これからの社会で少しでも幸せな人が増えればいいと思って、趣味も同じで、僕と同じ就活を控えた学生だったこともあって声を掛けました。」

 

彼とは二週間前にTwitterで知り合ったばかりだ。

知り合った、とは言ってもこちらが一方的にメッセージを送っただけだった。

わざわざ街で声を掛けなくても、友達の友達、その先までSNSを利用すれば簡単に連絡をとることが出来るのは、便利でありやはり脅威でもある。

自分がそうであったように、同じ学生相手ならば気を許し易いこともターゲットの条件となる。

ターゲットの過去の投稿を簡単に見返し、興味のありそうな分野を探る。

 

賢二さんもきっとそうしたのだろう。

本当はあの漫画だって興味も無いのに。

 

今回の学生の場合は映画だった。

例えば「自分もあの映画好きなので親近感湧きました」といったようにコンタクトをとれば、三人に一人は返信してくる。

そこから何とか二人で会う口実を繕い、今日のようにゆっくり話のできる場所に呼び出し、落としにかかる。

知らない人について行ったらだめ、とはよく言ったもので、子が大学生になっても親は釘を刺すべきだ。

 

おいしい話、とはつまり、こういう仕組みだった。

ショッピングモールで売れ残った商品は、アウトレットモール等で価格を下げて売られる。

そこでも売れ残った商品を、“本部”では買い取っていた。

詳しくは知らないが、賢二さんの話によれば只でさえ値下げしても売れない商品だから、買値としては破格らしい。

 

会員になれば、その本部が所有する商品を自由に扱うことが出来る。

もちろん自分で使用することも可能だが、それをオークションで転売する事で、利益を上げるのだ。

 

入会金として15万円が設定されていた。

ただ、オークションをしていれば15万なんてあっと言う間に稼ぐことができると賢二さんは話した。

バイトも辞めて、就活に専念出来る上、収入も得ることができるからこんなにいい話は無いと、学生に釣り合わない高価な装飾品を身に着けた賢二さんの言葉には説得力があった。

 

そうはいっても、最初の壁として学生にとって15万円は大金で、簡単に用意出来るものではない。

どうしても難しい場合、本部から入会金を借りることが出来る。

やはり何割か増しての返済になるが、例によってオークションをしていればそれも大した問題ではないと、その言葉を信じた。

冷静になれば、そんな上手い話なんてある訳が無いことは火を見るより明らかだったのだが、当時の自分は賢二さんのようになりたいと、直ぐに入会を決めた。

 

確かに商品の在庫は多かった。

賢二さんの助言の通り、何度も出品してみたはいいものの、所詮は売れ残りなだけあって、まともな値段はつかなかった。

もちろん15万円なんて到底稼ぐことは出来ず、非情な金利の借金は日に日に膨らんでいく一方だった。

 

いよいよ首の回らなくなったとき、賢二さんから“紹介制度”を教わった。

簡単な仕組みで、自分の紹介により誰かが入会すれば、そのバックとして三万円貰えるといったものだった。

所謂、マルチ商法の類だった。

勧誘を重ね、ピラミッド状に組織が形成されていく。

実情は、上層部のみが潤い、下層部には殆ど恩恵が無いと、しばしば社会的に悪徳商法と問題視されてきたが、実はルールさえ守っていれば法的に全く問題がない。

 

からくりに気付いたとき、賢二さんは話してくれた。

 

「俺も最初はまんまとやられたよ。とてもじゃないがあんな商品さばいて15万なんて稼げる訳がなかった。そこでの紹介制度だよ。おいしい話があると最初言ったが、あれもあながち嘘でもない。口の巧い奴にとってみれば、確かにこんなにいい話はない。もちろん最初は罪悪感があったが、こっちもそれどころじゃないからな。まあそのお陰で、直ぐに返済してやったよ。」

 

 

帰り際、学生は他意のない笑顔を浮かべ「今日はありがとうございました。」と礼を述べた。

 

「こちらこそありがとうございました。また連絡しますね、高崎さん。」

 

このまま返事なんてしてくれなくていい。

 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

この現状もこれはこれで、確かにそうだと、自嘲した。

 

自分が底へ歩いているのがわかる。

上を目指していたはずの道はいつの間にか下り坂に変わっていて、止まるには遠くまで歩きすぎた。

振り返ったとき、一本だったはずの道が枝分かれしていたことに気が付く。

あの時こうしていれば、その繰り返しで、それでも歩き続けるしかなかった。

 

いつか見た、ダイバーの映像を思い出す。

頭部にカメラとライトをつけた彼は海底を歩いている。

暗闇を僅かに照らすライトによって、徐々に深くなっていくことが映像ではっきり確認出来るが、彼は歩みを止めず進む。

そのダイバーが何故危険と知りながら深い海底へ歩き続けたのか、それは誰にもわからない。

そして映像はフェードアウトし、英語の字幕は彼が絶命したことを伝えた。

 

ただただ、深く、黒い海底へ歩き続ける。

毎晩の就寝前、暗闇の中で、自分があのダイバーのように海底を歩き、自分がその映像を見ているような錯覚を覚える。

一方で引き返せないと焦る自分、一方ではそれを他人事のように俯瞰している自分。

消し去ることの出来ない映像に瞼をきつく閉じ、睡魔が深い眠りに導いてくれる瞬間を待ち続ける。

 

いっそ海の中に沈んで、上を見る砂になりたい。

この捌け口を失った感情が溜まって、部屋を満たして、海になればいい。

青い青い、海になればいい。

 

莉奈と話がしたいと思ったのは、なんとなくだった。

悩みを打ち明けたい訳じゃないけど、なんとなく、声が聞きたかった。

今日の仕事終わり、誘ってみようかな。

そんなことを考えながら、調布駅前のカフェを出た。


東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

自分と違いまっとうに人生を歩んできたのであろう男性客を横目に、ただお酒を運んだ。

 

常連の男が帰ったあと、非常階段で似合わない煙草を吸う莉奈に話かけた。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

莉奈の口癖だ。

彼女は客の前でも、同僚の前でも、僕の前でも素顔を表さない。

いつもどこか遠くを見ていて、確かにそこにいるんだけど、存在自体がフィクションじみていて、この世界の住人じゃないように思えるときがある。

足を踏み外した自分でも、彼女なら受け入れてくれるんじゃないかって思うことがある。

きっと打ち明けたとしても、馬鹿じゃないのと、笑ってくれるんじゃないかって、そう思う。

 

このまま今日は閉店かなと思っていた矢先、三人組の男が来店した。

席に案内して飲み物を尋ねた際にぎょっとした。

年嵩の男に、席に着くなり眠りかけている男に、もう一人は昼間の学生、高崎だった。

彼はそうとう酔っていて、幸いにもこちらに気がついていないようだった。

顔を合わさないように、そそくさとバックルームに戻った。

 

途中、ちらりと席を覗けば高崎が莉奈の胸に手を伸ばしかけていたところだった。

それを莉奈が優しく制し、がははと笑っていた。

俺は莉奈ともっと仲が良いんだぞと叫び出したかったが、ぐっと堪えた。

少し羨ましく感じたのは、気のせいだ。

 

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1:01

4.Girl meets NUMBER GIRL 9/24 1:05

 

「莉奈ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる太い腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

後退した額を手で叩き、ぜい肉を蓄えた腹を揺らしながら客は笑った。

グラスに浮いた水滴をおしぼりで拭き取り、客がキープしているお気に入りの焼酎で水割りを作る。

傾けたボトルには私の手書きのタグが掛けられていた。

“すざわっち”

バカじゃないのかって、思う。

この須沢という男にも家庭はある。

高校生の娘と、大学生の息子がいるんだと、いつかの来店時に自慢気に教えてくれた。

こんな男が父親だなんて、二人の子と奥さんを思うと不憫で仕方がない。

 

「久し振りにすざわっちの歌聞きたいな」

 

「じゃあ今日は歌っちゃおうか」

 

東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

例によって今夜も、店内には“すざわっち”の他に、サラリーマンの四人組、何をやっているのかわからない男二人と、常連の年寄りが一人だけだった。

 

「失礼致します。」

 

声の方にちらりと目をやると、自動扉を開けたアルバイトのボーイである栄治が水割り用の水と氷を運んできたところだった。

 

VIPルームと銘打たれたこの個室は、来店の少なさも相まって、皮肉にもこの客の為に使われることになった。

他のテーブル席とは異なり、自動扉と軽い防音構造になった壁に囲まれた一角に四人掛けのソファーがL字に置かれ、絨毯が敷かれた床は足音もせず、天井にはこの町に相応しくないシャンデリアがきらきらと輝いていた。

 

テーブルに新しい氷と水を置いた栄治は、空いたトレンチを脇に挟むと片膝をついた。

 

「三番をお願い。」

 

「かしこまりました。」

 

その姿勢のままきっちりと頭を下げ、溶けかけた氷とカラになった水のボトルをトレンチに乗せて栄治は部屋を去った。

 

三番、とはウーロン茶のことだ。

この店ではキャストがドリンクを頼む際、番号による隠語が取り決められていた。

お酒に強いキャストなら客のキープボトルを一緒に飲んだり、例えば五番のビールなどを頼む。

一方私のように多く飲めない場合は、今のようにウーロンハイと偽ったウーロン茶を飲むことでその場をしのいでいた。

幸い、店内の照明の関係で顔の赤さなどは気にならないので、客がそれを飲んだりしない限りはバレることはなかった。

 

「哀れなあの子 涙に濡れて」

 

“すざわっち”は分厚い瞼を閉じて、若い頃から好きだという浜田省吾を熱っぽく歌っていた。

私はもちろんこの曲を知りもしないが、こういったバラードであれば、客の手を握りながら曲に合わせて揺れておけばいいと、先輩の楓さんが教えてくれた。

 

やけに長い曲に揺れることすら面倒になった私は、大きな肩に頭を預けた。

何を勘違いしたのか、握る手に力を込めた“すざわっち”の歌唱は更に熱を帯びだした。

 

馬鹿じゃないのかって思う。

話をしてウーロン茶を飲んで、たまに揺れるだけでお金が貰えるならこんなにいい話はなかった。

 

大学の友達や両親は、危ないよ、だとか、自分を大切にしないと、だとか、そんなことばかり口を揃える。

ちゃんとしたバイトをしろって、これのどこが“ちゃんとしてない”バイトだって言うのか。

需要と供給を伴って経済活動と呼ぶのなら、この仕事ほど分かり易く体現しているものはない。

女と喋りたい男と、金が欲しい女。

逆もまた然りだ。

 

すざわっちは相変わらず大きなお腹を揺すって歌っていた。

こうして誰かの手を握ると、あの日を思い出すことがある。

あの部屋、光景、臭い、記憶が断片的に、喉に挟まった小骨のように、忘れかけた頃にちくちくと煩わしい。

 

初体験は大学一年生の夏休み、サークルの先輩が相手だった。

 

私は彼に好意を寄せていたし、彼も同じ思いを抱いているのだと思っていた。

 

地方から進学の為に上京してきた私は調布市のアパートに部屋を借りており、 大学までは京王線で一本の位置だった。

 

その日、 サークルの飲み会のあと、特に仲の良かった五人で飲み直そうと私の部屋に移動した。

 

私はブランケットを膝に掛け壁にもたれて、隣に座っていた先輩と隠れて手を握っていた。

 

冷房で肌寒いのに、緊張と高揚で手のひらは汗ばんで、お酒のせいなのか喉元まで心音が弾んでいた。

 

そして皆が眠ったあと、常夜灯の照らすワンルームの端で、手を握ったまま先輩とキスをした。

 

長いキスは初めてだったし、 周りに皆がいることを思うとバレてしまうのではないかと気が気でなかった。

 

翌朝になると皆はバイトや予定などのため部屋を出て行った。

 

お酒の空き缶や食べかけのおつまみの残る部屋で昨晩のことを思い返していると、玄関のドアがノックされた。

 

先輩は携帯の充電器を忘れたと一人戻ってきた。

 

ちょっと待っててくださいと部屋の内に戻ると、いきなり後ろから抱き締められた。

 

突然の挙動に驚く間もないまま、半ば押し倒される形でベッドに倒れ込んだ。

 

空き缶が音を立てて床に転がる。

 

やめてくださいと口に出しながらも、どこか期待があったのだろう、 Tシャツを下着ごとたくし上げられ胸が露わになっても、それほどの抵抗はしなかった。

 

彼の息づかいは荒く、貪るように身体を舐められる最中も、優しさは感じなかった。

 

彼が私の腹上で果てた後、汗と血と体液の染みたシーツを脱衣場の洗濯機に放った。

 

その時の感情はよく覚えていない。

 

初めて異性と結ばれた充足感か、大事なものを棄ててしまった喪失感か。

 

部屋に戻ると先輩は既に着替えを済まし、バイトがあるからとそそくさと部屋から出ていった。

 

その瞬間、幾つかのことを悟った。

 

恐らく今後、先輩との関わりは殆ど無くなるだろうし、先輩に対する好意も殆ど冷めてしまうだろうし、これから先、男の人を愛せないかもしれない。

 

不快な粘着感が肌にまとわりつく冷房の切れたワンルームの端で、昨晩手を重ねたブランケットにくるまった。

 

馬鹿みたい。

 

アルコールとさきイカと男女の抜け殻、それらが混ざった臭いが、未だに鼻腔にこびり付いて私に問い掛ける。

 

大事にする、“自分”って何だろう。

 

「莉奈ちゃん、また来るね。」

 

「うん、また明日ね。」

 

「明日はどうかなあ。」

 

額を手で叩きお腹を揺すって笑う“すざわっち”がタクシーに乗り込むのを見届けると、エレベーターで三階にある店内へ戻った。

バックルームで化粧を直し、店舗裏にある非常階段でバージニア・エスに火をつけた。

煙草を吸い始めたのはストレスや自暴自棄ではなくただ、なんとなく。

 

身の回りのことが“どうでもいい”とは昔から感じていたけど、決して否定的な意味ではなかった。 

最初から皆と同じ様な順風満帆な人生を歩めるとも考えていなかったので、大学に入学したことさえ我ながら驚く行動だった。

 

他人と同じ道が嫌なのではなくて、 嫌なことを避けていたら他人と違う道を進んでいた。

人生なんて人の数だけあるのに、マイノリティだけを否定するのっておかしいし、可笑しい。

世間の評価なんて私にとって関係ないし、“どうでもいい”のだけど。

 

「莉奈、ちょっといいかな。」

 

振り向けば、非常階段へのドアから栄治が覗いていた。

 

「だから、仕事中はタメ口やめてって。それと、あんまり話し掛けないでって言ってるでしょ」

 

それには特に返さず後ろ手で音を立てずドアを閉めた栄治は、 一本貰ってもいいかなと人差し指を立てて笑った。

私は大げさにため息をついて仕方なくといった仕草でバージニア・エスを渡した。

 

「でも、こんなの女子が吸うものだよ。」

 

「吸えれば何だっていいんだ。」

 

栄治は一口吸い込むと顔をしかめ、続けざまに更に一口吸い、階段に置かれた客用の灰皿の上でとんとんと灰を落とした。

 

「あの須沢って男、完全にハマってるね。莉菜も指名料が弾むんじゃない」

 

「どうだっていいんだけどね。私と話して何が楽しいんだか。若い女だったら誰だっていいんじゃないの。」

 

「莉菜と話をするのは楽しいよ。」

 

口元に優しい笑みを浮かべる栄治に動揺を悟られぬよう、すぐに返した。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

店の方から来店を知らせるベルが聞こえた。

 

「ごめん、今日上がった後少し話せないかな。第二公園で待ってるから。」

 

栄治は慌てて煙草をもみ消すと、返事も聞かずに店の中に消えた。

 

ただでさえ馬鹿な男と話をして疲れているし、早く帰って化粧を落としたいし、それに公園だなんてありえない。

 

でも、話ってなんだろう。

 

妙な期待をしていることに気が付き、呆れたように頭を振った。

 

あの日の自分が階段の上に座り、馬鹿みたい、と私を見下ろしている。

 

期待には二種類あると思う。

一つは、応えるもの。

自分が他人(ひと)の為に応えたり、誰かが応えてくれたり。

もう一つは、裏切るもの。

裏切ることもあれば、裏切られることもある。

 

私の人生において期待の定義とは、圧倒的に後者だ。

裏切られるのは、期待をするからだ。

期待しなければ、裏切られることはない。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

一人呟くとドアを開けて店内へ戻った。

 

「莉菜ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、がははと笑う大学生風の男。

 

「高崎お前何してんねん」

 

その隣に座っていた年嵩の男が“高崎”の頭を叩いた。

 

「だって気になるじゃないですか、荻原さんは莉菜ちゃんが何カップかわかるんですか。」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を受け止め、膝の上に戻す。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、“高崎”と“荻原さん”は一緒にがははと笑った。

 

このテーブルについたのは私と19歳の柚(ゆず)だった。

“高崎”は柚にすがるようにして話しかけた。

 

「柚ちゃん、俺の悩み聞いてよ、昨日バイト前にね」

 

“高崎”が話し出そうとすると“荻原さん”がすかさず制した。

 

「だから、お前の悩みなんて興味ないねん。それにお前、さっきの店でなんか決めたって言ってなかったか。」

 

悩み、私の悩みってなんだろう。

出てこないってことは、何も悩んでないってことなのかな。

それはそれで、良いことかもしれないし、それもそれで、良くないことにも思える。

 

「えーなんですか気になるなー」

 

 柚は感情のない台詞を感情を込めて読み上げた。

 

「でも俺、荻原さんみたいに、一人で抱えて一人で解決できるほど強くないんすよ。」

 

泣きそうな表情で高崎が訴えた。

 

一人で抱えて一人で解決する。

私にとってそれは当然のことだったけど、もし、相談できる人が周りにいれば、もっと楽に生きれるのかな。

 

「例えばな、喧嘩が強い奴ってのは、殴られた痛みを知ってんねん。その痛みを知らん奴が、最近ニュースでも見るけど相手を死なせてしまったりしてんやろな。数こなしてる奴は“あ、これ以上やったら死んでまうな”とか加減がわかんねん。」

 

荻原さんが煙草を咥えたので、すかさずライターで火を付けた。

すまんなと片手を上げ、続けた。

 

それと同じでな、人生でもどん底見てきた奴はやっぱ強いねんな。

落ちるのは簡単やけど上がるのは難しいってよう言うやろ。

逆に、底まで落ちるのも簡単なことやないからな。

どん底経験して、それでも這い上がってきた奴って、やっぱ強いねん。

上も下も見ずに平々凡々の人生歩んでる奴のほうが、弱いこともあったりすんねん。

だから、例え今悩みがあるんやとしても、それは将来的に見たらチャンスやろ。

どうせ落ちるなら、今の内にどん底見といたらええねん。

 

荻原さんは視線こそ高崎に向けているが、その言葉を私に向けているように感じたのは、きっと気のせいだろう。

 

「ま、人生なんて結果論やからな。いつがピークやとか、振り返ってみんとわからんけどな。」

 

荻原さんが吸う煙草の先が、オレンジに光る。

煙をゆっくり吐き出しながら水割りを指でかき混ぜ、グラスを口に運んだ。

 

「つまるところ、今をがむしゃらにやるしかないんやろな。その地点を底とみるか天井と捉えるかも自分次第だったら、他人よりもまず、自分で評価してやることが大切やと思うけどな。」

 

なんとなく、栄治の笑顔が頭に浮かんだ。

 

莉奈と話をするのは楽しいよ。

 

公園に行ってみようかなって思ったのは、なんとなくただ、なんとなく。

 

「高崎、お前はどうや。」

 

「なんかいい話に紛れて論点をずらされてるような気がしますけど、胸が痛いっす。」

 

胸に手をあてながら倒れこむ高崎を、柚が優しく受け止める。

 

「もう一つ教えといたるわ。いい人ほど早死にするらしいで。せやからお前は」

 

「即死ですね」

 

がははと二人は笑い、その笑い声に来店からずっと眠っていた連れの客が目を覚ました。

 

それに気が付いた高崎が声を掛けた。

 

「ところで拓朗は、莉菜ちゃんは何カップだと思う」

 

「どうだろうなあ」

 

と眠たそうに腕が伸ばされる。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

三人はがははと叩き合いながら笑った。

 

ほんと、 馬鹿じゃないの。

 

私も一緒に、笑った。

 

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3.スクールフィクション 9/24 0:08

 

例えばインディーズバンドの追っかけに筆頭する、”まだ売れていないバンド”のファンからすれば、メジャーデビューなどでそのバンドが注目を浴びて新規のファンが増えることを面白く思わないこともある。

 

言い換えれば、誰も見向きもしない苗から育ててきたリンゴの木がやっと成長したと思えば、手の平を返したように人々が実を摘み取っていくような感覚で、要はおいしい部分だけ持っていかれることがたまらなく悔しいのだ。

 

しかし本当にそのバンドを応援しているのであれば、「売れる」といった願いはバンドもファンも共通であるはずだ。

 

”売れる”こととは一つとして、多くのリスナーの支持を得ることであって、即ち新規ファンの流入が増えることに繋がる。

 

つまり、バンドを応援するファンであるということは必然的に、新規のファンを歓迎するべきなのだ。

 

そこにはジレンマがあり、応援はしているけど売れてほしくない、できるなら自分だけが好きでいたい、でもみんなにも知ってほしい、と口には出さない葛藤があるのだ。

 

 

友人の所属するバンドは広島での活動を経て、立派なミュージックビデオを公開し、全国のタワーレコードでシングルCDを発売した。

 

多くの時間を共有したわけではないが、同級生だった中学時代から大学入学後も幾度かの交友があったこと、以前に自主制作CDを購入していたこともあって、自分もその躍進を嬉しく感じた。

 

ただ、これまで公に応援したこともなければ、このバンドが好きだと公言したこともない。

 

今更応援していると発言することにある種の後ろめたさを感じる。

 

それは先述のインディーズバンドの件のように、全くの無名の時期から応援している同級生もいるであろうし、「売れそうだからって食いつくな」と思われてしまうようで、気が引ける。

 

そんなことは関係ないと理解はしている。

 

それでも。

 

「拓朗、酒が進んでないね。」

 

高崎が隣の座布団に腰を下ろし、親しげに肩を組んできた。

 

何処にでもあるような大衆居酒屋の一角では、宅配寿司屋のスタッフ数名が顔を合わせていた。

 

人員不足の中で予算以上の売上を記録した土曜日の営業終了後、店長である荻原(おぎはら)さんが「酒でも飲み行くか」と皆を誘ったのだった。

 

荻原さんは自他共に認めるお酒好きで、事あれば理由をつけて飲み会を企画した。

 

「ああ、ごめんごめん。」

 

氷が溶けて薄まったレモンサワーを一息に飲み干し、丁度オーダーを取りに来た店員に追加のレモンサワーを注文する。

 

「何を考えているのさ。」

 

何を、と問われて答えられないこと自体が悩みであるならば、この悩みを掘り下げる行為は風呂場の曇った鏡を手で拭うように途方も無く思えた。

 

何度拭ってもすぐに曇り、自画像は不鮮明なシルエットとして僕と対峙する。

 

鏡の向こう側の声はシャワーの音にかき消されたまま、不安や嫌悪や煩悶を揉み消すように泡立つ頭をかき混ぜる。

 

「なんや、拓朗がまたしょーもないことで悩んでんのか。」

 

対面の荻原さんは肉野菜炒めの肉だけを器用につまんでいた。

 

「何でもないです。ほんとに、しょーもないことなんで。」

 

残された只の野菜炒めを箸でつつき、自嘲っぽく笑った。

 

最近になり、旧友がそれぞれ進路を固める話を耳にすることが多くなった。

 

件のバンド活動に邁進するもの、英語圏での生活を視野に数年間の米国留学へ旅立つもの、プロダクションから声を掛けられファッション誌のモデルを任されたもの、夢を見つけたと会社を辞め専門学校に入学したもの。

 

各々の多様な方面での活躍を、同級生として嬉しく思う反面、堪らなく悔しかった。

 

喜びを分かち合いながら心の何処かでは、斜に構え皮肉になる感情があった。

 

その感情に気が付くと、すぐに振り払う。

 

現実が残酷なのではなく、人の中の虚構が楽観的すぎるのだ。

 

十年後の自分は、今この瞬間、一分一秒の連続の直線上にある。

 

今の僕に、何が出来るというのだろうか。

 

まるで自分だけが“考える”と言う概念を保持しているように周りは何も考えていないと思い込むのは、他人の思考を汲み取ることが出来ない想像力の欠如だ。

 

電車内での他人の通話に苛立ちを感じるのは、自分だけが蚊帳の外のような疎外感に起因するものだ。

 

そこに関わることが出来ないと理解すれば、馬鹿がする空っぽの会話、どうせ何も考えていないから迷惑も顧みないのだろうと敵意を抱く。

 

誰しもが考えている。

 

空腹にお腹がなるような分かり易いものではない。

 

憶測を巡らせることは可能であっても、真に根底まで他人の考えを覗き見ることはできない。

 

自分自身でさえ、覗くことができないものを。

 

「荻原さん俺の悩み聞いてくださいよ。」

 

頬を紅く染めた高崎が、組んだ肩から体を揺らしてきたので、俺は荻原さんじゃないと腕をほどいた。

 

「お前は黙って腹筋でもしてろや。」

 

高崎は姿勢よく敬礼すると、座敷に横になり腹筋を始めた。

滑稽なものを見るように荻原さんは笑うと、煙草に火をつけた。

 

「あんな、悩みとか相談とかな、よく聞くねんけど、大体みんな、自分の中でもう答えは出てんねん。」

 

数式の正答を知ったところで、それを導き出す過程を見つけ、証明することが出来なければ得点はない。

 

AがBであることを、証明せよ。

 

平行線の錯角が等しいので、A=Bである。

 

自分の行為に意味があることを、証明せよ。

 

そんなもの、知るはずがない。

 

「でもその答えに自信が持てへんから、他人の後押しが欲しいんやろな。間違ってないよって、それが正しいって、言ってほしいだけなんやろな。」

 

メビウスの6mgを深く吸い込み、火種が赤く伸びる。

 

相変わらず腹筋を続ける高崎を横目に、荻原さんは続けた。

 

「そらほんまに答えが分からん時はもちろんあるで。でもな、どっちがええかとか、こうしようと思うんですけどって時はな、そいつの中でもう決まってんねん。何を助言しようが、どんな言葉を掛けようが、大した意味は無いねん。」

 

まだ半分残っている煙草を灰皿で粗雑に揉み消すと、荻原さんは言った。

 

「お前自身が、一番わかってんねんやろ。」

 

まるで自分の両の瞳に胸中が映っているような気がして、思わず目を逸らした。

 

俺の事は俺が一番分かってるから。

 

父親に放ったいつかの言葉が、残響のように鼓膜を叩く。

 

「思うようにやったらええねん。お前の人生やろ。他人の意見に左右されて決めた道で、しょうもない結果になって後悔するよりはな、自分の思うようにやったらええねん。お前が何がしたいか、お前が一番理解してると思うし、もう答えは出てんねんやろ。やりたいようにやったらええねん。」

 

「俺、やってみようと思います。」

 

気が付けば腹筋を終えた高崎が隣の座布団に正座をして、真っ直ぐに荻原さんを見つめていた。

 

「俺、どうしようか迷ってたんですけど、荻原さんの言葉染みました。実は今日バイト前に」

 

「お前のことはどうでもええねん。勝手に腹筋やめんな。」

 

高崎は姿勢よく敬礼すると、再び腹筋を始めた。

 

重ねて、歪めて、蔑んで、尊んで。

比べて、寄り添って、犇めいて。

悩んで、悔やんで、迷って、息を殺して。

そうやって、人は生きてゆく。

生きる意味を、探してゆく。

 

「ほな、そろそろ次行こうや。」

 

荻原さんは一人会計を済ませると高崎を呼んだ。

 

「おい高崎、キャバクラ行くで。」

 

「はい、一生ついて行きます」

 

高崎は座敷から飛び起きると駆け足で荻原さんの元へ行った。

 

「拓朗も行くで。」

 

忘れ物でもしたようにこちらへ戻ってきた高崎は、腕を肩に回すと歌い始めた。

 

忘れてしまいたいことや どうしようもない寂しさに

包まれたときに男は 酒を飲むのでしょう

 

それは、48歳でこの世を去ったシンガーソングライター河島英五の代表曲、”酒と泪と男と女”だった。

 

男らしさと男の弱さ、そして女の脆さ書いた詞と、渋く力強くも温もりのある情緒的な歌唱が好きだった。

 

0時過ぎの国道沿いを、皆で並んで歌い歩いた。

 

飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで

飲んで 飲みつぶれて 眠るまで 飲んで

やがて男は 静かに眠るのでしょう

 

「動けよ青年。今動かずして、いつ動く」

 

高崎は自分の背中を叩くと、駆け出した。

 

「高崎もたまにはええこと言うな」

 

荻原さんが頷き、そして一つ問いかけた。

 

「動くのはええねんけど、お前どこへ走ってんの。」

 

「キャバクラです」

 

「不埒やなあ。」

0:08

 


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2.退屈しのぎ 9/9 20:17

 

 

秒針が小気味良い音を立てながら時間を刻む。

 

ぼうっと眺めながら、刻々と、二度無い時間を失い続けているのだと、じりじりとシャッターが下りる様をイメージした。

 

 

 

耳に飛び込んできたのは、聞くに聞き逃せない、まさに耳を疑う一言だった。

 

 

「セックスって面倒くさい。」

 

 

初老のマスターが営む“オノダ珈琲”でアメリカンを味わっていた時の出来事だった。

 

置き時計の分針が、20時10分を差した。

 

 

ぎょっとした表情で声のした方向に視線をやれば、自分より少し歳上であろう男女三人がテーブル席で向き合っていた。

 

スマートにスーツを着こなしたビジネスマン風、その隣にはストレートキャップを被り顎ひげを生やしたTシャツの男性。

 

二人の対面に、問題の発言をした張本人であろう至極真面目な表情の女性。

 

 

わからない。

 

まずこの三人の関係性がわからない。

 

スーツの男性から会社帰りの同僚かと仮定しても、キャップに顎ひげにTシャツでは説明がつかない。

 

最大の疑問は、一体どのような会話の流れがあれば、あの発言に繋がるのか。

 

 

聞き洩れる言葉の断片と記憶を辿りながら、浅煎りのコーヒーの香りを確かめた。

 

 

================

 

 

「結局男ってやりたいだけなんでしょ。」

 

 

真由は憤ったようにミックスジュースを飲み干した。

 

「そりゃできるならやりたいよ」

 

笑いながらストレートキャップを被り直す亮太を横目に、

 

「確かに、亮太みたいな男も世の中には多いね。」

 

足を組み直しながら啓介が肯定する。

 

「啓ちゃんまでそんなこと言って。」

 

「啓介はそういうところわかってくれるよな。」

 

 

三人は幼なじみだった。

 

狛江第三中学校を卒業後、高校大学と別々の進路を辿ったが交友は続き、そして社会人二年目になった今でも、時間があればこうしてオノダ珈琲へ集まる。

 

 

「真由の言うことも、亮太の言うこともわかる。」

 

軽く頷きながら、啓介はカプチーノを啜った。

 

 

そして二人の顔を交互に眺めると、コーヒーカップを持ったままの手で、人差し指を立てる。

 

「“付き合っていない男女同士のセックスを認めるべきか。”」

 

音を立てずカップを置き、にやりとして議題を投げかけた。

 

 

「出たよ、朝まで大激論。」

 

参ったというように両腕を上げて、亮太が背もたれに伸びる。

 

 

特に、亮太と真由とでは価値観が合わないことが原因で何度も言い争いになることがあった。

 

それをどこか楽しみながらも、司会進行のように仲介するのが啓介の役目だった。

 

 

「あり得ないわ。」

 

言わずもがな既に討論会に参加した真由は、考えられないとでも言うように首を振った。

 

「そういう行為は、ちゃんと付き合った人とするべき。当たり前よ。」

 

苛立ったようにストローを口に咥えたが、グラスには溶けかけた氷しか無いことに気が付き、手を挙げてマスターを呼んだ。

 

「確かにそうだな。」

 

腕を組んだ啓介が肯定すると、

 

「俺はいいと思うけどね。」

 

負けじと亮太も反論する。

 

「確かに妊娠させてしまったらアウトだけど、ちゃんと避妊した上で、更にお互いの同意のもとだったら誰にも迷惑はかけない。」

 

「それもわかるな。」

 

「わからないわ。そもそも、セックスに対しての考え方が軽すぎる。」

 

マスターにおかわりのミックスジュースを注文した後、真由も反撃する。

 

「セックスは好きな人に対する愛情表現だってこと。キスやハグと同じよ。好きな人としかしないからドキドキするんでしょ?もし誰とでも見境なくキスでもセックスでもしてたら、本当に好きな人としても何も感じなくなるわ。」

 

「真由は考え過ぎなんだって。気持ちいいことを共有するだけじゃん。」

 

「好きな人以外としても気持よくないわ。」

 

啓介は苦笑しながら、熱くなる二人を制した。

 

 

「どちらの言うこともわかるよ。少し俺の意見も聞いてくれないか。」

 

「啓介が乗り気だなんて珍しいな。」

 

確かに、普段の啓介は中立的な立場を持って二人の意見の聞き役に徹していた。

 

論点がずれれば元に戻し、双方が納得する結論へ誘導するのが上手かった。

 

「いいよ。私もたまには啓ちゃんの意見聞きたい。」

 

真由は前のめりだった体勢を正し、凛とした表情で啓介を見つめた。

 

 

亮太曰わく、“黙っていればかわいい”類の女性らしかったが、確かに通った鼻梁と切れ長の瞳は目を引くものがあり、学生時代にはミスコンテストに推薦されるほどだった。

 

しかし癖の強い彼女は「女性に向けた男の声援ほど鳥肌の立つものはない」とそれを辞退したというのだから、まったく真由らしいと啓介と亮太は笑いあった。

 

 

「実を言うと、俺は今回亮太寄りの意見なんだ。」

 

「嘘でしょっ」

 

早くも前のめりになり目を見開く真由。

 

「啓介、お前は男だ」

 

援軍が来たと握手を求める亮太。

 

「まあ少し聞いてくれ」

 

眉をかきながら啓介は笑った。

 

 

「二週間前くらいの話だ。会社の飲み会があって、つい盛り上がりすぎて同期の女性が終電を無くしてしまった。」

 

「おいおいまじかよそれって」

 

一人先走る亮太に苛立ちを隠さず、真由はテーブルの下で足を蹴った。

 

痛がる亮太を哀れみながら、「ありがとう」と話を続けた。

 

「その子とは入社当時から仲が良くてね、途中まで家の方向も同じだったから、仕事終わりにご飯に行くことも結構あったんだ。」

 

「何かいいなそういうの。うちの会社だと絶対ないな。」

 

「ところがそうでもないんだ。」

 

啓介は一度話を止め、少し考える素振りをして、苦い思い出を呼び起こすように口を開いた。

 

「たぶん、彼女は俺に好意を持ってくれていた。」

 

「そりゃそうだ」

 

亮太が羨ましそうに頷く。

 

「俺としてはあくまで、友達として向き合ってきたから、恋愛的な感情は持っていなかった。」

 

「啓ちゃんらしいね。」

 

「ところが例の飲み会の日、こんな言い方は好きじゃないんだけど、独り身の寂しさと酔っていたせいもあって、この子となら付き合ってもいいかなって、そう思ってしまったんだ。」

 

亮太は茶々を入れず、足をさすりながら聞いていた。

 

「そしてそんな日に限って彼女は終電を無くした。タクシーで帰ると言ったんだが、俺の乗る路線はまだ動いていたから電車で行けるところまで行こうと、同じ電車に乗った。」

 

さめたカプチーノを口に含み、それでもなお香りを楽しむにゆっくりと飲み込んだ。

 

 

「電車で眠ってしまった彼女を放っておけないから、おぶって俺の部屋まで連れて帰った。」

 

一つ溜め息をこぼす。

 

「きっと彼女はそれを狙っていたんだろうな。俺がベッドに寝かしてやると急に抱きついてきた。」

 

「おまっ」

 

乗り出しそうになる亮太を、真由が鋭い目で制した。

 

「後はもう察しての通り、してしまったんだ。そして気付いてしまった。俺は彼女を愛していないってね。」

 

 

少しの沈黙があり、テーブルの上には秒針の進む音だけが響いていた。

 

「亮太ならわかってくれるだろうけど、男っていうのは果てた後、どっと疲れが来るものだ。」

 

そうだな、と笑いながら亮太が頷く。

 

 

「真由は、セックスの後に男が冷たいって感じたことはないか。」

 

急なパスにたじろぎながらも真由は答えた。

 

「たまにあるかな。前の彼氏はそんなことなかったけど、すぐに別れちゃったり上手くいかなかった人はそうだったかも。」

 

「そこなんだよ。本当に男が女を愛しているのなら、終わった後でも彼女を愛せるはずなんだ。ところが好きではない女性の場合、もうどうでもいいとか、一瞬でもすぐに寝てしまいたいって倦怠感が勝って、女性を構ってやれなくなる。」

 

 

「確かにそうだ。クラブで拾った女とか、多少かわいくても終わってしまえば興味なくなる。」

 

「最低ね。」

 

真由は突き放すように返した。

 

 

「最初の話に戻れば、相手のことを好きかどうかわからないって時あるだろ。男の場合、そんなときにセックスをしてみればいいと思う。本当に好きだったとしたら、セックスが終わった後でも愛おしく感じれるはずだ。逆に何も感じなかったり罪悪を感じたのなら、それっきりにすればいい。」

 

「でもそれって女の子がかわいそうだよ。」

 

「確かに、あまりに男中心的すぎるかもしれない。ただ、中途半端な気持ちで付き合って人生という時間を浪費するよりも、一回で済むのとでは結果的に女性にとっては幸いなのかもしれない。」

 

啓介はカプチーノをゆっくりと飲み干し、相変わらず音を立てずにカップを置いた。

 

 

「まあこれが正しいってことではなくてさ、一つの指標として、色々な形があっていいと思うんだ。」

 

 

「なんだか、セックスって面倒くさい。」

 

 

真由は肩をすくめた。

 

 

 

================

 

 

なるほど、想像を止め、現実に引き返す。

 

その流れがあってのあの発言だったのか。

 

辻褄が合った事に満足し、温かいコーヒーカップを持ち上げた。

 

 

いい香りだ。

 

ブレンドコーヒーとは、数種類のコーヒー豆をブレンドして焙煎することからそう呼ばれる。

 

とは言え、アメリカンコーヒーは一種類の豆のみを焙煎している訳ではない。

 

こちらも数種類の豆を使用することがあり、何をブレンドするのかはマスター次第だ。

 

 

ではブレンドとアメリカンの違いは何か。

 

それは豆を深く煎るか、浅く煎るかの違いだと、二度目に来店した際にマスターが教えてくれた。

 

深く焙煎された色の濃いブレンドは、見た目に反して味が濃すぎず飲みやすい。

 

一方アメリカンは少し色が薄く、一見水っぽい印象を受けるが口に含めばその深みのある濃さにギャップを受ける。

 

 

俺はアメリカンが好きだった。

 

コーヒーの味に特にこだわりはないが、何も考えてなさそうでいて、蓋を開けてみれば深層まで複雑に絡んだ思想があるような、イマジンを体現するメタファーのように受け止めている。

 

 

見た目や発言の断片だけで決め付けた先入観は、そのものに対する理解をそこで止めてしまう。

 

 

末端の言葉だけを切り取り、あのテーブルは破廉恥だと決め付けず、その奥に潜んだ真意を汲み取ることで視野は広がるのだ。

 

 

何となく嫌っている人に対する“好きになれない要因”を掘り下げて元を辿ってみれば、「あいつは○○だ。」と、第一印象だけで理解を止めていることがある。

 

ところが実際に会話をしたとき、案外良い奴じゃないかと判断を改め、気が付けば仲が深まっていたというような経験は、珍しくもないだろう。

 

 

大切なのはイメージ。

そしてファクト。

 

どちらも欠けてはならないし、どちらに依存してもいけない。

 

時計を眺める。

 

紛れもないファクトで在りながら、どこかフィクションじみたその存在は、イメージに傾倒しそうになる自分に圧倒的な現実を思い出させる。

 

8時15分で止まった煤の付いた懐中時計。

 

14時46分を差したままひび割れた壁掛け時計。

 

真実の目撃者はいつだって、時計なのかもしれない。

 

 

 

帰り際、例のテーブル席をちらりと覗けば、楽しそうに談笑する三人の姿があった。

 

セックスについてあそこまで楽しく語り合える友人の存在を羨ましく眺めながら、ご馳走さまです、とステンドグラスがはめ込まれたドアを開け、店を出た。

 

 

 

20:17

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

「セールスって面倒くさい。」

 

女は肩をすくめた。

 

「確かに、セールスは面倒くさいよな。」

 

スーツ姿の男が笑う。

 

置き時計の分針が、20時10分を差した。

 

 



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1.WHIRLPOOL 9/4 15:30

 

 


スケジュール帳を見返して驚いたが、何も予定のない無計画の休日を過ごすのは、実に四月最後の日曜以来のことだった。

 

休みを得たところで特別するべきことも見つからず、友人と呼べる存在も乏しかったことから、曜日感覚も忘れアルバイトに忙殺される生活を選択した。

 

確かに、たまの飲み会帰りには「明日休みだったら」と感じることも多々あった。

 

しかしそれを除けば、何の意義も見出だせない休日を惰性でだらだらと過ごすよりは、働いている方がよほど心持ちが楽であったことも事実だ。

 

 

先日の金曜日、そういえばと宅配寿司屋の土日のシフトを確認した時、自分の名前が見当たらないことに気が付いた。

 

シフトを出し忘れたか、と店長に問い合わせたところ、人手は足りているから久しぶりに休めばいいと、毎日バイトをしている自分を慮った行為であると理解した。

 

 

そんな経緯から、何も予定のない無計画の二日間を獲得したのであった。

 

 

急に休日を与えられても毎日働くことが感覚として普通であったから、小屋を与えられた捨て犬みたいに、住み慣れた段ボールを探して戸惑ってしまう。

 

どう過ごすべきか逡巡し、結局訳もなく夜更かしをして土曜日の昼過ぎまで眠って過ごすという、取るに足りない時間を消費した。

 

 

自宅に余っていたカップラーメンを昼食とし、暮れかかった日差しの差し込む台所で煙草を吸った。

 

どこかに出掛けようかと考えたが、行く宛も用事もないことに気が付いて顔も洗わず再び布団に横になった。

 

 

やっぱり予定のない休日は嫌いだ。

 

音のしない空間で一人になると、バイトを理由に考えることを避けてきた現実と現状を突きつけられる。

 

 

「休学って言ってるけど、どうせ辞めるんだろ。」

 

 

「今の生活が、東京に行ってまでしたかったこと?」

 

 

「早く大人になれよ。」

 

 

輪郭のはっきりしない誰かの声が、耳鳴りのように頭のなかで五月蝿い。

 

 

わかってる。

 

俺だって頑張ってるじゃないか。

 

毎日働いて、毎週講座にも通って、頑張ってるじゃないか。

 

 

「半年経つけど、何か得られたの?」

 

 

 

「みんな言ってるよ。あいつは逃げただけだって。」


 

 

痛いなぁ、俺はシンジ君かよ。

 

 

気が付くと眠りについていた。


 

 

目を覚ますと、時刻は20:30だった。

 

せっかくの何もない土曜日、恐れていた通り何もせず終わってしまう。

 

 

空腹を覚え、財布だけ持って近所のコンビニに向かった。

 

弁当と、パスタと、チキンを二つ。

 

痩せ型の割に、我ながらよく食べる方だと自負している。

 

ストレスで暴食し激太りした女性を思い出す。

 

俺は胃下垂で体重が増えにくく、激太りもしないだろう。

 

何から何まで中途半端だ。

 

 

 

温めた弁当をつつきながらYouTubeで好きなお笑い芸人を見ていた。

 

本当におもしろい。

 

笑っている間だけは、余計なことも考えないでいれる。

 

 

 

やはり食べ過ぎたとはちきれそうなお腹をさすりながら、換気扇の下で煙草に火をつけた。

 

 

いっそ、交通事故にでも遭えばって。

 

 

地震でも起きないかって。

 

 

会社も街もめちゃくちゃになって、「それは仕方ないね」って、そうすれば楽なのにって、思ってしまう。

 

 

被災地の実情を知れば、そんなことを考えること自体が過誤であるとは理解している。

 

 

現状を動かすための理由ではなく、現状を正当化しようとしているだけだって、わかっている。

 

 

俺は弱い人間だ、そう思い込み、「弱い人間」で完結させようと、「だから仕方ない」と逃げようとしている自分を認める度に、

コンタクトレンズのように眼球に張り付いた現実に、目を塞ぎたくなる。

 

 

満腹と得体の知れぬ焦燥感を道連れに、敷きっぱなしの布団に身体を投げ出した。

 

今日が土曜で、明日が日曜。

 

こんな時間をもう一日繰り返すと考えただけで、気が重たくなる。

 

電気を消し、眠気もないのに瞼を閉じていると、携帯電話のバイブレーターが着信を知らせた。

 

薄暗がりに眩しいディスプレイに目をやると、兄の名前が表示されていた。

 

 

3つ歳上である兄とは、現在でこそ普通に会話をしているが、一年程前まではほとんど口を交わすことが無かった。

 

どちらかが嫌っているわけでもなく、仲が悪いわけでもなく、照れくささのようなものから中学生辺りから距離をとっていた。

 

兄は小学生の頃から、周りが見ないような深夜のお笑い番組を好んで録画し、お年玉等でお金を得る機会があればダウンタウンのDVDを買っていた。

 

幼い頃から憧れの存在であり、言動を真似て、学校でも如何に面白いと思われるか、兄に近づくために試行錯誤していた。

 

歳を重ねる度、いつかの兄の年齢を経る度、一歩だって超えられていないと実感する。

 

未だに憧れを抱き、超えるよりはむしろ、認められたいと願うようになった。

 

 

「もしもし、どしたん」

 

「どしたん」

 

「いやどしたんって、兄貴がかけてきたんじゃろ」

 

俺が上京して以来、老婆心からか時折電話をかけてくるようになった。

 

そして意味の分からないことを俺に聞かせる。

 

「エネルギーって知っとるか」

 

「まぁ、何となくは」

 

「働いて、それでも趣味で仕事終わりとか休みの日にサッカーとか野球とかする人おるじゃろ」

 

「うん」

 

「そういう人に比べて、一見、仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って、休日も無駄なことはせず過ごす人の方が真面目で仕事が出来そうなイメージがある。」

 

「うん」

 

「でもな、仕事して、スポーツもしとる人のほうが仕事が出来ることもある。何でかわかるか」

 

「わからん」

 

「エネルギーっていうのは、休んだ分溜まって仕事した分消費するってもんでもない」

 

「うん」

 

「仕事っていう”やりたくないこと”とは別に、サッカーとか趣味である”やりたいこと”をする人は、そこで新しいエネルギーを生み出すんよ」

 

「ほう」

 

「起きた時が100、仕事に80使うとする。残ったエネルギーは」

 

「20」

 

「一方、起きた時が100,仕事に80、サッカーに30消費して、そこで60のエネルギーを生み出すと」

 

「50残る」

 

「つまり、サッカーをしとる人のほうが多くのエネルギーを消費する分、それ以上のエネルギーを生み出すことが出来とるわけよ」

 

「なるほど」

 

「そこで気が付いた。ただ俺も仕事をするだけじゃなくて、チャージせんといけん。」

 

「うん」

 

「この前Facebookで知り合った何人かと、花火をすることになった」

 

「…」

 

「でも予定が合わんとかで、実際に集まったのは俺と21歳の女の子だけ。お前と同い年じゃ」

 

「…」

 

「夜の河川敷、二人だと盛り上がりに欠けるからって、煙玉を3個、同時に火をつけた。」

 

「うん」

 

「そしたら驚くくらいの煙が出て、お互いも霞んで見えんくらいになった」

 

「うん」

 

「んで、『この煙の中だったら、何やっても周りに気付かれんね』って言った」

 

「…」

 

「そしたら、『そうですね』って言うけ、『チャージしていい?』って聞いたんよ」

 

「は?」

 

「そしたら、『チャージってなんですか』って言うけ、『Suicaみたいなもんじゃな』って言った」

 

「何言っとん」

 

「そしたら、『いいですよ』って言うけ、『とりあえず2000円分ね』って言って、」

 

「何が2000円分や」

 

「承諾を得た上で、抱き締めた。」

 

「何しとん」

 

「その内に煙が薄れてきて、俺はチャージをやめたんじゃけど、『もうちょっとチャージしていい?』って聞いたら、『いいですよ』って言うけ」

 

「は?」

 

「1キロくらい先にあるコンビニまで、全力で走って煙玉買いに行った。」

 

「まじで何しとん」

 

「6個」

 

「いや知らん」

 

「んで戻って、『次は5000円チャージしていい?』って言ったら」

 

「いや、もういいわ、この話まじで何」

 

「つまるところ、エネルギーっていうのは趣味とかで生み出すこともできるけ、働いてばっかりも良くないわな。俺の場合は、煙玉だって話よ」



 

そして何の脈絡もなく、次のような話をした。



 

俺が京都で塾の講師やりよった頃な、中学三年生の女の子とお母さんが入会の説明を受けに来たことがある。

母子家庭で、経済的に豊かじゃない上、その女の子には私立高校に通う兄がおった。

正直その学費ですらしんどいから、その子には公立高校を目指してほしいらしくてな。

そして、その子は二年生まで不登校だった。

 

塾だって高いからな、俺は敢えて最初からお金の話ばっかりした。

確かに、塾のノルマとして売上って部分は上からも言われるし入会は大歓迎だけど、家庭環境を察するに厳しいことは目に見えとった。

二年生からの勉強をし直すんだったら、最低でも週二回は通わんと追いつけんし、結構かかりますよって。

 

でもな、お母さんは言ったんよ。

この子は高校に行かせてあげたい。

親戚中からお金集めてでも、塾に通わせますって。

私がこの子にしてやれる、最後の賭けだって。

もし、それでも受からなかったら、働かせますって。

 

お金は何とかしますので、よろしくお願いしますって、

結局塾に通うことが決まったんよな。

 

俺らの家も、決して裕福とは言えん、奨学金借りんにゃ大学も行けんかったけど、色んな家庭があるってことよ。

 

お前が大学入学するとき、何十万って入学金が必要だったじゃろ。

俺達には言わんかったけど、おばあちゃんとかもお金送ってくれたり、母さんもお金借りたり、そうやってお前を大学に行かせてくれたこと、お前も知っとるだろ。

学費は奨学金で自分で払っとるかもしれんけど、そうした支えがあってこそ、お前は大学に通えとったこと、忘れるなよ。

 

まあ、やりたいことがあるって東京出たんなら、何でもいいから成し遂げてみろ。

それか、俺と芸人になるかどっちかじゃな。

幸運なことに、お前は俺の弟っていう得難い特権があるけ、まあ失敗することはまずない。

どっちにしても、お前は芸人になるけど、それまでの間、がんばれや。





何も言えなかった。

 

携帯を握りしめたまま、動けなかった。

 

情けなくて、悔しくて、腹が立って。

 

胸の中で感情が渦巻いていた。

 

おれは、とんでもない間違いを犯しているのかもしれない。






日曜日、昼過ぎに起床すると、シャワーを浴びて身支度を整えた。

 

例によって用事は何もないが、家に閉じこもっているのだけは避けたかった。

 

近所のコンビニに立ち寄り、缶コーヒーを買った。

 

設置された灰皿に近づいて、煙草に火をつける。


 

 

仰いだ青い空が青過ぎて 瞬きを忘れた

 

いつか殺した感情が 渦になる 渦になる

 

仰いだ青い空が青過ぎて 戸惑いも忘れて

 

いつか描いていた未来 渦になる 渦になる


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