東京 closing down

現実とフィクションと楽曲が重なったとき、始まりのエンドロールが走りだす。 Photo by shun nishimu

弁当箱と換気扇 12/28 8:41

 

 

職場では、多忙なスケジュールを抱えるスタッフの為に、出前や弁当の注文をとっている。

 

夜勤のおれはその余りを、夜食として深夜に戴いていた。

 

千円近くする弁当は、一つ一つの具材が丁寧に調理されており、冷めていてもなおコンビニ弁当では味わえない満足を感じる。

 

弁当を食べるとき、ふと中学時代を思い出すことがある。

 

 

通っていた中学校では、各々弁当を持参するか、デリバリーと呼ばれる給食をとる二択があった。

 

その給食だが、小学校の出来立てのものとは違い、他所で調理されて運ばれてくるものだったから、おかずはほとんど冷めており、しかも味も劣ると生徒からの評判が悪かった。

 

一方おれは、毎朝母さんが作る弁当を持参しており、毎日献立の変わるデリバリー給食を羨ましく感じていた。

 

と言うのも、母さんの作る弁当は毎日決まった具材で、いつフタを開けても玉子焼き、ミートボール、きんぴらゴボウ、ピーマンの和え物、ミニトマト、そして白米が変わらぬ配置で静座していた。

 

思い返せば幼稚園の頃からこのバリエーションに変化はなく、苦手だったピーマンも泣きながら食べていたらそのうち平気になっていた。

 

 

いつか、母さんに頼んだことがある。

 

冷凍食品も最近ではクオリティも高くなっており、友人の弁当箱では色とりどりのおかずが美味しそうに並べられている。

 

ウチの弁当にも、冷凍食品のラインナップを増やしませんか?

 

その数日後、弁当箱を開けるといつものおかずの隅に、冷凍食品のハンバーグが詰まっていた。

 

おお、これはハンバーグだ、うまい。

 

しかし冷凍庫のハンバーグの在庫も無くなると、また弁当はいつもの弁当に戻った。

 

その都度おれは冷凍食品を求め、毎日の昼食に若干の不満を抱いたまま過ごした。

 

 

そんな弁当と比べ、不評とはいえデリバリー給食は魅力的だった。

 

毎日違うおかず、なんて贅沢なんだろう。

 

おれは母親に頼み、中学二年生に上がるとデリバリー給食をとるようになった。

 

なぜ不評なのかわからない程、給食は満足だった。

 

確かに小学校のそれと比べれば劣る部分もあるが、冷めているのは弁当にしても同じであるし、味も全然悪くない。

 

素晴らしいデリバリー。ビバ給食。

 

 

それから数年。

 

おれは高校生になったおれは一人暮らしを始めた。

 

自炊は想像以上に手間で面倒で、閉店間際のスーパーの弁当を買った方がお得で楽だと気付いた。

 

そう考えれば、月並みな言葉だけど母は偉大だ。

 

おれの母さんは保育士で、朝早ければ夜も遅くなることがあった。

 

疲れて退社後、スーパーで買い物をして、帰宅したらすぐ夕飯を作る。

 

翌朝早くに目覚めて、家族の朝ご飯と弁当を作って出社。

 

とてもじゃないがそんなタスクこなせないと、当時思った。

 

母さんすげぇよ。

 

そしてふと、思った。

 

おれの中学時代、仕事で朝も早いなら、最初から給食とった方が楽だったんじゃない?

 

作るにしても、チンするだけの冷凍食品の方が、楽だったんじゃない?

 

さすがにミートボールとミニトマトは作ってなかったけど、思い返せば、玉子焼もピーマンもきんぴらも、毎朝早くから、母さんは作っていた。

 

おれが起きるとリビングには、いつも朝食と弁当が用意されていた。

 

それを拒んで、おれが給食を選んだとき、何を感じたのだろう。

 

 

青さとは時に、罪である。

 

冷凍食品の手軽さと美味しさを知りながら、なぜ母さんが手作りのおかずにこだわったのか、今ならわかる気がする。

 

 

それからまた数年。

 

おれは単身上京した。

 

そんな母さんから、時々荷物が送られてくることがある。

 

高校生の頃から、おれがcoenで服を買っていたからか、coenのシャツやニットを送ってくる。

 

おれに金がなくて、服を買う余裕もないのだろうと察してくれたのだろうが、ギンガムチェックは四枚もいらないよ、母さん。

 

頻繁に綿棒送ってくるから、大量の綿棒があるよ、母さん。

 

大家さんに渡すためのクッキー、喜んでくれたよ、母さん。

 

強風で換気扇が逆回転して煙草の煙が部屋に跳ね返ってくるよ、母さん。

 

おれは元気にやっているよ、母さん。

 

ありがとう、母さん。

 

フォーエバー、母さん。

 

 

12/27 8:41

 

煙草と天動説 12/24 6:32

 

《東京の太陽は、ビル間から昇る。》 

 

 

例えば有神論者は、

『この世界は神が創造したのだ』と謳う。

 

生命の誕生も地球の終焉も、神の意向によるものだと説く。

 

であるのなら、人の記憶や過去の記録は何の効力も失って、1995年2月27日におれが生まれたことの証明もできない。

 

もしかすると、神は一年前に、
いまの世界を創造したのかもしれない。

 

記憶や古文書でさえ、

「さっき創りました。」と神が言えば、

それが歴史の証明に成りうることはない。

 

「そういう記憶とそういう状況を、いま創りました。」

と神が言えば、


おれが今、喫煙所にいることも、


5分前に火を付けたこの煙草も、


それが半分まで短くなっていることも、


何の説得力も持たない。

 

中学まで続けた、下手くそで苦痛でしかなかった軟式野球も、


自堕落な生活で寝坊ばかりしていた高校大学も、


後ろめたさと面倒くささで行かなかったおじいちゃんのお見舞いも、


正しいと思い込んだ間違った選択もすべて、


証明の為の仮定にすらならない、
意味を持たなくなってしまう。

 

そのすべてを、「いま創りました。」と神が言うのなら、
じゃあ、こうなったのはおれの責任じゃない、と楽観していいのだろうか。

 

都合はいいけど、ほとほと困る。

 

とことん悔しく、都合がわるい。

 

oh my God、お助けを。

 

まったくもって、ナンセンス。

 

なんて話、あるわけない。

 

存在しないことを、おれは証明できない。

 

それでもいい。

 

どっちでもいい。

 

 

東京はビルばかりだ。

 

13階から外を眺めても、
背の高いビルに囲まれて、
水平線は見えない。

 

5分前に火を付けて半分まで短くなった煙草を吸いながら、
明るんだ東の空に、ビルで隠れた太陽を探す。

 

占いも宗教も神も、とことん懐疑的だ。

 

んなわけねーだろと嘲るこの感情でさえ、
誰かに創られたものだとすれば、完敗だ。

 

でもその“誰か”を作り上げているのも
おれ自身だとすれば。

 

いたちごっこの水掛け論。

 

らちが明かない。

 

そうだとしても、抗うのだ。

 

いたちごっこなら化け続け、

 

水掛け論なら水を掛け続け、


「らちが明かない」と“誰か”が嘆く。

 

「oh my God」と、神が憂う。

 

 

この夜明けは、新世紀の幕開けだ。

 

東京の太陽は、ビル間から昇る。

 

5分間の歴史で、最初の証明だ。

 

12/24 6:32

 

咆哮とジョン・レノン 12/1 12:45

 

《一体何だというのだ》

 

 

プルースト現象とは、嗅覚や味覚から過去の記憶が呼び起こされる現象のことだ。

 

フランスの作家であるマルセル・プルーストの作品、“失われた時を求めて”の作中で、主人公がマドレーヌを口にしたとき幼少期の記憶が鮮明にフラッシュバックされた描写から、プルースト現象と呼ばれるようになった。

 

 

実家の石油ファンヒーターにあたるのは一年ぶりくらいだろうか。

 

特徴的な起動音のあとに、懐かしく暖かい匂いがリビングを這う。

 

そして、ふと小学校低学年くらいの記憶が蘇る。

 

 

印象的なものは2つある。

 

1つは、ギターを趣味としていた父親が集めていたCDやカセットテープで兄と遊んでいたときのこと。

 

お気に入りの遊びは、曲の録音されたカセットテープに、兄とおれが歌ったデタラメな歌を上書きすることだった。

 

例えば、DA PUMPの『if...』が録音されたテープがあり、

サビの歌詞、 『もしも君がひとりなら』

の部分を、 『もしもし亀よ亀さんよ』

と語呂ぴったりに吹き替えするのだ。

 

それを父親に聞かせて、二人で喜んでいた。

 

 

特に印象的なのは、ビートルズの名曲、Let It Beだった。

 

この曲はサビで、

 

let it be let it be

 

と繰り返すのだが、当時のおれたちには

 

ゲリピー ゲリピー

 

としか聞こえなかった。

 

もはやこれは何の曲なんだろう。

 

なんでこの人は、ゲリピーと歌っているんだろう。

 

狂気の沙汰としか思えない。

 

何、真面目な声で、いい感じのメロディーに乗せて、ゲリピーゲリピーと連呼しているんだ。

 

怖かった。

 

 

2つ目は、実家に唯一石油ファンヒーターが置かれていたリビングで、三つ歳の離れた兄と温風の取り合いをしていたときのこと。

 

小さな体で陣取り合戦をしながら生まれたのが、“お尻ゾーン”と呼ばれる奇怪な遊戯だった。

 

温風を譲るまいとおれが得意としていたのは、ヒーターの前にうつ伏せになることだった。

 

こうなればさすがの兄でも退かすことが難しくなる、おれは陣取りの勝ちを確信した。

 

すると兄は突然、「お尻ゾーン。」と発声したのだった。

 

それは、4人対戦のボードゲームバトルドーム”のCMを思い出させた。

 

男性の渋い声が言う「バトルドーム」のそれに酷似していたのだ。

 

「お尻ゾーン。」という聞き慣れない語感と、背筋を這うような不気味な響きは、勝ちを確信したはずのおれを不安にさせた。

 

兄は温風などどうでもいいと言わんばかりに、直立し、まっすぐ前を見つめたまま、「お尻ゾーン。」ともう一度言った。

 

おれは動くことができなかった。

 

一体何だというのだ。

 

お尻ゾーンとは何なのだ。

 

もはやヒーターの暖かさも忘れ、おれは冷えた死体を演じた。

 

そんなおれに構うことなく、兄の「お尻ゾーン。」は始まったのだった。

 

まず、うつ伏せで伸びたおれの足の裏に、兄は立った。

 

小学生の体重だったので痛みは感じず、おれはされるがままだった。

 

そのまま兄は、足に沿うように俺の上を歩き出した。

 

ふくらはぎ、膝の裏、兄はゆっくりと進行していた。

 

ふと気づいたが、兄はおれの部位を踏むたびに何か言っている。

 

兄が太ももに到達したとき、小さな声で「太ももゾーン。」と呟くのが聞こえた。

 

と言うことは、つまり最初に発したのは「足の裏ゾーン。」

次に「ふくらはぎゾーン。」

次に「膝の裏ゾーン。」

 

なるほど、と合点していると、恐るべき事実に気がついてしまった。

 

戦慄しながら恐る恐る首だけで振り返ると、兄はまっすぐ一点を見つめたまま、ゆっくりと歩みを進めていた。

 

そのまま進んでしまえば、どこにたどり着くかは目に見えていた。

 

そして、恐るべきは、ちょうど温風の出る場所が、お尻なのだ。

 

よせ、やめろ

 

しかし兄はおれのお尻の上に立つと、ゆっくりと口を開くのだった。

 

「 お尻ゾ ー ン。」

 

やられた。

 

兄は最初からこれを狙っていたのだ。

 

ところが兄はそのままお尻を通過した。

 

そして腰ゾーン、背中ゾーン、まで進んだのだった。

 

おいまさか、このまま“頭ゾーン。”まで来られるとヤバい。

 

再び首だけで振り返ると、兄はやはり一点を見つめたままゆっくり進んでいた。

「肩ゾーン。」

とうとう肩まで来やがった。

 

このままだとまずい。

 

そこでおれは、両ひじから上体を持ち上げて進行を止める作戦に出た。

 

兄はバランスを崩し、背中ゾーン、腰ゾーンまで後退した。

 

踏み込まれたおれは、ふぐぅと情けない声を漏らした。

 

とりあえず助かったと安堵もつかの間、兄は相変わらず一点を見つめたまま、くるりと方向転換した。

 

そしてそのまま小さく一歩を踏み出した。

 

やられた。

 

兄はエヴァンゲリオンの如く咆哮をあげた。

「 お 尻 ゾ ー ン 」

 

未だに、あの日の挙動が理解できない。

 

石油ファンヒーターの匂いを嗅ぐと、「お尻ゾーン。」が鮮明に蘇る。

 

あれは、何だったのだろう。

 

12/1 12:45

 

7.足首 12/1 16:40

 

 

 

畳の匂い。

 

祖父母の匂いだ。

 

マッチをおこし、半分に折った線香を灯す。

ゆらゆらと昇る懐かしい薫りを目で追えば、経年を感じさせる些か黄ばんだ壁に祖母と祖父の遺影が並んでいた。


父方の祖父母は、自分の出生と同時に建てたという団地の一軒家で一緒に暮らしていた。

 

口うるさくて氷川きよしが大好きなおばあちゃんと、学校から帰るといつも野球の練習に付き合ってくれた厳しくも優しいおじいちゃん。

 

加えて、父と母と兄と自分、当時六人が暮らしていた一軒家は、2016年11月、ひどく静かだった。

 

 

 

祖母は中学二年生の九月に亡くなった。

 

照りつける太陽に残暑を恨めしく感じた土曜日の昼過ぎ、所属する野球チームの練習中に、「国貞、ちょっと来い」と厳しい事で評判のコーチから呼び出しを受けた。

 

小学生の頃から始めた野球もいつからか、センスと呼べるようなものは持ち合わせていなかったことに気が付き、他人を凌ぐ程の努力もしなかったことも相まって、ポジションは補欠、練習中でもしばしばエラーをし、くだんのコーチにはこっ酷く怒られていた。

 

そんな背景があるから、また何かミスでもしたかと走ってコーチの前で姿勢を正せば、救いようの無い一言を浴びせられた。

 

 

「お前はもう帰れ。」

 

 

例えば、「やる気あるのか」だとか「練習から外れてグラウンドを走っていろ」と言われるのなら茶飯事だったが、「帰れ」と言われたのは初めての経験だった。

 

これは相当まずいミスを気が付かず犯していたのだと「やらせてください」と声を張り、中学生なりの誠意を示した。

 

急に帰れと言われても自宅から車で三十分以上かかる練習場から歩くのはグラウンドの走りこみよりも酷であるし、迎えを呼ぶにも叱られて帰らされたと説明するのはあまりに情けなく、何よりそんな息子を持った両親が不憫だ。

 

 

「やらせてください」

 

 

「いや、おばあちゃんが危ないみたいだ。すぐに帰れ。」

 

 

コーチの後方のフェンス越しに、母親の運転する白の乗用車が到着するのが見えた。

 

 

広島市口田に祖母の入院する病院はあった。

 

母親に連れられ学生服姿の兄と病室へ急げば、会社を抜けてきたのであろうスーツ姿の父と、入院時から付きっきりだった祖父、叔母にあたる父の妹夫妻がベッドに眠る祖母を囲んでいた。

 

おお、とこちらに気が付き、いつものように軽く頭を叩いてくる父の笑顔はどこか寂しさと、”人の死”をおぼろげに感じさせるものだった。

 

話によれば、昨夜遅くに容態が急変し、いつ最期を迎えてもおかしくない状態であったらしい。

 

それでもこうして身内が集まるまで何とか持ちこたえ、相変わらずばあさんは賑やかなのが好きらしいと、祖父は温かく笑った。

 

真っ白で清潔感のある病室に泥のついた練習着で佇んでいることに若干の居心地の悪さを感じながらも、父に促されるまま祖母の手を握った。

 

ふくよかで歩くのも窮屈そうだった祖母の手は、驚くほど細かった。

 

よく食べ、よく眠る、そんな祖母の面影は、枯れそうな手指には感じることができなかった。

 

「おばあちゃん」と一言発したきり、喉の奥から漏れそうな何かを堪えることに精一杯で、口を開くことが出来なかった。

 

その数分後、祖母は息をひきとった。

 


 

八年の年月は、確かに目の当たりにした筈の光景でさえ、現実味の欠けたフィルム映画のように風化させる。

 

物が片付けられた和室を見渡す。

 

折り畳まれた介護用ベッド、ほこりを被ったプラズマテレビ、壁に立て掛けられた丸い机。

 

父が時折挿し替える花の供えられた仏壇に目を移す。

 

祖母にとって、自分はどんな孫であったのだろうか。

 

野球の練習がある朝には「ヒットヒットホームラン」と氷川きよしの歌に乗せ送り出してくれていた祖母の目に、自分はどう写っていたのだろうか。

 

自慢の孫で、あれただろうか。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 



高橋を殺しに行こう。

 

 

11月27日の日曜24時過ぎ、おれは決意した。

 

もはやこれは、高橋を殺すしかない。

 

あいつも、いきなりおれが広島に帰ってくるとは思ってないだろう。

 

それにしても、タチが悪い。

 

決意を固めるその一時間前、カップラーメンを啜っているタイミングで届いた一通のメッセージ。

 

普段連絡を取り合うような仲でもない中学の同級生、意外な人物からの一言は、おれを戸惑わせ、動かすだけの充分なインパクトを持っていた。

 

 

 

" 高橋が亡くなったらしい。"

 

 

 

こんなにもわかりやすくて、こんなにもわかりにくい文章はないなと、漠然と思った。

 

ああ、高橋か。

 

確か前に会ったのは盆明けに帰省した時だったかな。

 

上京する前から、同郷の友人である吉永と高橋とは、特に目的もなくコンビニに集まっては、だらだらと時間を過ごすことが多かった。

 

中学の頃からの仲で、いわば、親友だ。

 

特別なことはしなくていい、ファミレスやドライブやコンビニ、一緒にいるだけで楽しい、気の合うやつら。

 

高橋、吉永、国貞のグループラインでは、「はらへった」や「煙草吸おうや」などと理由をこじつけては「30分後に八木セブンね」と二つ返事で集合が決定していた。

 

高卒で就職した高橋の職場の愚痴、趣味である車やバイクの話、吉永の恋愛事情や夜遊びで親に怒られたエピソードのいじり、おれの童貞卒業報告もこいつらが最初だったし、怠惰な学生生活状況、中学校時代の思い出は飽きもせず何回も繰り返し話して、地元に中指を立てて、無事故無違反を謳いながらむちゃくちゃな運転をする高橋を、吉永と一緒に笑った。

 

ああ、その高橋が亡くなったのか。

 

わからない。

 

いや、頭ではきっと理解はしている。

 

”高橋”が、”亡くなったらしい”、それだけのことで、こんなにわかりやすい文章はない。

 

それにしても、なんというか。

 

タチが悪い。

 

 

これがもし高橋を中心とした地元ぐるみのドッキリだったとしたら、そのときは高橋を殺すしかない。

 

わかった、吉永と結託して、高橋を殺そう。

 

お前ふざけんなよと、いつものセブンイレブンで煙草を吸いながら、まじうけるわと笑う高橋を、吉永と殺すしかない。

 

 

高橋を殺しに行こう。

 

 

そうなれば、まず吉永に連絡を取らないといけない。

 

時刻は24時を回っていた。

 

”高橋が亡くなったらしい”というタチの悪いメッセージを受け取ってから、一時間近く経過していた。

 

何を一時間もぼうっとしているんだ、早く高橋を殺しに行く段取りを決めるために吉永に連絡を取らなければ。

 

数回コール音が鳴ったところで吉永が応答した。

 

「もしもし、今大丈夫?」

 

「おん、どしたん」

 

「あんねぇ」

 

「おん」

 

「あのー、高橋がねぇ」

 

「うん」

 

「あのー、高橋が」

 

「高橋がどしたんや」

 

「あんねぇー、高橋が」

 

「なんや」

 

「そう」

 

「うん」

 

「高橋が、亡くなったらしい」

 

 

何をもたもたしているんだ。

 

さっさと吉永にこの壮大でタチの悪いドッキリを伝えて、高橋を殺しに行く計画を立てないといけないのに。

 

なに涙なんか流しているんだ。

 

 

「…」

 

 

不思議なもので、「高橋が亡くなった」と自分の口から発音した途端、それが急激に現実味を帯びてきて、それがとんでもない事実なんじゃないかって、喉が震えた。

 

こんなドッキリあるわけないだろと冷静に処理している自分に気付かぬふりして、高橋ふざけんなよと笑って突っ込む。

 

本来なら吉永に、「おい高橋が死んだとか言っとんじゃけど」って笑って、何なら若干キレ気味で伝えるつもりだったのに、口からそれを発する直前に、なんというか、現象だけ文字に起こすと、涙が出た。

 

これは困った。

 

俺は記憶に無いくらい、最後に泣いたのはいつだろうか、と思うくらい、涙を流していなかったのに。

 

涙を流せないほど、俺は東京という大都会の大海原に揉まれ流され、感情を失ってしまった血の通わないアンドロイドと化してしまったのか。

 

いや、そういえばこの前観たドラえもんの映画で結構な号泣をした。

 

しかもつい最近には彼女に別れを告げた際にも泣いていた。 

 

結構泣いているじゃないか。

 

まぁ、涙っていうのは、目的でも手段でもなくて、あくまで副産物的なものだ。

 

涙を流していないから感動してないわけでもないし、涙を流していないから悔しくないわけじゃない。

 

であるならば、逆説的に言えば、副産物である涙が流れるということは、その根源的な感情があるはずだ。

 

 

感動か、悔しいのか、悲しいのか。

 

悲しいんだとしたら、それは何故か。

 

 

“高橋が亡くなったらしい”から。

 

 

まったく。

 

まったく、タチが悪い。

 

 

思考が正常に回っていないことにはとっくに気づいていた。

 

冷静に俯瞰したおれ(闇遊戯的な)の言葉を借りれば、「現実から目をそらそうと必死」らしい。

 

何はともあれ、早く広島に帰って、吉永を誘って、今から一緒に、これから一緒に、殴りに行こうか。

 

ラーメンはとっくに、伸びきっていた。

 

 

 

 

話によれば、バイク事故らしい。

 

高橋は20時に仕事を終えたらしく、おれが訃報を受けとったのが23時過ぎだったから、その間のことだろう。

 

もっとも、おれを無理矢理東京から引き戻す壮大なドッキリでなければの話だ。

 

夜分遅くの失礼を承知の上、勤め先に数日間お休みをいただきたい旨を伝えて、小田急線と新幹線の始発の時刻を調べた。

 

全く機能していない夜中の交通機関に苛立ちを覚えながら、眠気なんて微塵もない覚醒し続ける頭をかき回した。

 

なんせ、こういった事態に直面したとき、どう行動するのが正解なのかなんて、学校では習っていない。

 

「皆さん、親しい友人が亡くなった際には、直ぐに帰省しましょう。」

 

なんて道徳の時間にも教わった覚えはない。

 

 

とりあえず、高橋と交友のあった友人知人に連絡をとった。

 

その都度、“亡くなったらしい”と不確定で信憑性の乏しい情報を伝え続けた。

 

そのうち、ああ本当にアイツは死んだのか、と、真実に麻痺していく自分に腹が立った。

 

 

 

特にすべきことも見つからず、始発まで余裕の有り余る時間に家を出て、最寄りの松屋に向かった。

 

松屋はいつ訪ねても只の牛丼屋で、食券と引き換えに提供されたプレミアム牛めしも只の牛丼だった。

 

みそ汁は熱いし、紅生姜は旨いし、こんなときでも松屋はどこまでも松屋だった。

 

 

電車を乗り継いで東京駅に向かい、口座から家賃を切り崩して切符を買い、全く眠気の無い片道四時間を過ごした。

 

 

広島に到着し、高橋は病院から実家に戻ってきているとの連絡を受けた。

 

自宅を訪ねる承諾を得て、母親の車を拝借して、懐かしい道をたどり走った。

 

 

思い返せば、小学生の頃から何度も高橋の自宅を訪れたことがあるが、玄関より先に上がったことはなかった。

 

 

階段を登り、右に折れた和室の引き戸を開けた。

 

 

 

なんだ、高橋、おるじゃん

 

 

なに寝とんや

 

 

次に広島帰るの年末とか言いよったのに、割とすぐ帰ってきてしまったわ

 

 

お前なんしとんや

 

 

吉永と一緒に、殴りにきたで

 

 

あ、吉永連れてくるの忘れたわ

 

 

 

膝から崩れ落ちるように、畳に顔がこすれた。

 

 

 

お前、なに寝とんや

 

 

 

だってそれはどう見ても、いつもの寝ている高橋なのだ。

 

少し揺すれば、目をこすりながらあくび混じりに「おお、たくじゃん、どしたん」と起きてきそうではないか。

 

 

 

おい、ふざけんなよ

 

 

お前、なに死んどんや

 

 

 

浴びせるはずだった罵詈雑言が、車の中で考えた冗談が、言いたかった言葉が、そもそも声が、出なかった。

 

 

まったく、タチが悪い。

 


 

 

そのあとは吉永を連れたり、高橋に会いたいという同級生と連絡をとったり、旧友と電話したり、比較的冷静に過ごした。

 

葬儀の一連は、悲しみを忙しさで紛らわす目的もあるといった話を思い出した。

 

少なからず自分もその恩恵を受けているんだなと、思った。

 

 

 

翌日はお通夜だった。

 

スーツを兄貴に借りるも、シャツとベルトと革靴がなくて、前のバイト先で後輩から革靴を借りて、シャツとベルトは紳士服店で新調して、ごたごたしながら会場に到着すると本当にたくさんの人がいた。

 

同級生はもちろん、その両親、小学校時代の野球のコーチもいたし、車仲間であろう髪の明るい人たち、会社関係者。

 

おれの高校の友達も来てくれていた。

 

高橋を紹介して一緒に遊んだ仲だった。

 

数回しか会ったことがないやつも、「友達の友達は、友達だろ」といって駆けつけてくれた。

 

おれが言うのもおかしいけど、本当にありがとうと伝えた。

 

ある同級生の言葉を借りれば“ほら吹き”だったあいつも、なんだかんだ好かれていたらしい。

 

 

 

その翌日はお葬式。

 

その日も多くの人が参列していて、例によって高校の友達も来てくれた。

 

 

でもやっぱり、こういう場が苦手だった。

 

焼香の意味なんて知らないし、そもそも宗教に興味がない。

 

浄土真宗がどうだとか、お坊さんの読経なんてワケがわからないし、相互扶助の目的かもしれんけど香典だって本来は故人への供物だろう。

 

 

生前に高橋が、「お釈迦が―」とか、「親鸞が―」とか、「阿弥陀如来が―」とか語ってたんなら、しょうがない。

 

それどころか「彼女のクリスマスプレゼントが―」とか言ってたろ。

 

 

決して、否定的な意味ではないんだけど、漠然と、宗教の自由を感じる。

 

「今ごろ天国で―」とか聞くけど、天国すらキリスト教の考えだからもうワケがわからない。がんじがらめ。

 

かといって、おれが死んだときに葬式しません!とか言い出したら嫌だけど。

 

まあなんというか、ガチガチに縛られずに、こんなときだからこそ頼ったらいい、心のより所として、くらいの位置付けで、宗教っていうのは、もっとラフな感覚でいいんじゃろうね。

 

 

 

おれは同級生の為でも、ご遺族の為でも、世間体の為でもなく、紛れもなく、高橋個人の為に出席した。

 

 

だから読経なんて聞き飛ばして、焼香なんてすっ飛ばして、棺桶覗いて、お前ふざけんなよ!って笑いたかった。

 

 

だってなあ、そんなお互いを褒め合うような仲でもないし、帰り際に家まで送り合って「また会おうね!」って言う仲でもないし、

 


死んだからって、仮に最後だったとしても、いつも通りでいたかった。

 

 いつも通り、吉永と煙草吸いながら、笑いたかった。

 

 

 

ところが変に常識を意識して、ちゃんと黙ってお坊さんの話を聞いて、皆に倣って作法の知らない焼香済ませて、棺桶覗いて悔しそうに下唇噛んで、親族に頭を下げて。

 

 

いくら高橋の為とは言っても、ご遺族の皆様の、その心中は甚だ察することなんてできないし、ご両親やご兄弟とも昔から面識があったから。

 

 

 

誠に、ご愁傷様でございます。

 

心から、お悔やみ申し上げます。 

 

 

 

それ以外の表現を、俺は知らない。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

線香の灯火はゆっくりと身を削っていた。

 

陳腐な例えをすれば、人の一生も似たようなもので、激しく輝きながらあっという間に燃え尽きるものもあれば、静かにゆっくりと最期を迎えるものもあって、その中でも高橋は元から短い線香だったんだろうと。

 

 

なんて話、あるわけがない。

 

 

確率や運命なんてものが嫌いだ。

 

そういう運命だった、なんて結果論に依存した言い訳なんて御免だ。

 

 

そんなの、浮かばれないじゃないか、あまりにも報われないじゃないか、どうしようも、ないじゃないか。

 

かといって代替案はない。

 

それでも、俺は嫌だ。

 

 

 

祖父母の部屋であったこの和室には、2012年10月から捲られていないカレンダーが掛けてあった。

 

仏壇屋のもので、筆文字でこんな言葉が書かれている。

 

 

『明日を思い煩うよりも、今を如何にすべきかが大切である。』

 

 

――大切である。

何様のつもりだ。

何をもってして、そう言い切れるのだ。

 

数ヶ前読んだときには身に染みた言葉も、今は苛立ってしょうがない。

 

すべてに腹を立てていた。

 

 

親友が亡くなった。

 

それから数日間は、引きずった。

 

高橋の死とまるで関係がないのに、自分の将来や、あらゆることがどうでもよく感じた。

 

不安を通り越して諦め、腹を立て、煙草を吸った。

 

 

かといって、普段の生活に大きな変化はなかった。

 

冷たくなった高橋を確かに目の当たりにしたはずなのに、電話したら眠たそうに出るんじゃないか、とか、ライン送ったら返ってくるんじゃないか、とか、コンビニ呼んだらすぐ来そうじゃな、とか、思う。

 

 

高橋と吉永とおれ、三人のグループラインは、今でも既読が1のままなのに、あいつが最後に送った“動くスタンプ”は妙に現実味を無くさせる。

 

何回もタップして、動かしてみると、なんだ、生きてるじゃないかって、馬鹿みたいに思う。

 

 

でも、ふとした拍子に、気づいてしまう。

 

ああ、高橋はもういないのか。

 

 

単純に、遊ぶ友達が一人減ってしまったとも思えるし、心にぽっかりと穴が空いてしまったようにも思えるし、自分でも整理ができない。

 

“悲しい”だけで形容したくない、よくわからない類の感情で、言葉で表現できないことに戸惑った。

 

 

 

ただ一つ確実なのは、二度とこんな経験はしたくない、それだけだった。

 

 

 

でも、いつでも会えるらしい。

 

浄土真宗では、死んだら天国でも地獄でもなく、お浄土に行くらしい。

 

お浄土ってのは、誰しもの心の中にあって、目を閉じて手を合わせれば、いつでも故人に会えるらしい。

 

吉永と二人で、五,六回はこの話をした。

 

まあ全部 “~らしい” 話だから恐ろしく信憑性に欠けるけど、どっちにしてもおれの心の中に高橋がおるのは気持ちが悪い。

 

高橋ふざけんなよ!

 

と、目を閉じ、手を合わせて、おれは言うらしい。

 

セントラルパーク ダコタハウス前

来世はそこで落ち合おうぜ

 

おれは真似て言うらしい。

 

あくまで、そうらしい。

 

 

 

仏壇を前に、慣れない正座に両足がしっかり痺れているのがわかった。

 

 

なにをやってるんだ、おれは。

 

 

ここ最近で何度、同じことを呟いたんだろう。

 

 

いっそ、このまま広島に残って、柴犬と暮らそうか。

 

 

でもなあ。

 

 

悔しい。

 

 

いろんな思いはあるけれど、根底にあるのはそれだけだった。

 

 

悔しい。

 

 

このまま終わってたまるか。

 

 

自分自身ですら精一杯であるのに、高橋の分まで生きれるとは思えないけど

このまま死んだとき、ご浄土で高橋に馬鹿にされてしまう。

 

 

「たく、なんしとんや」

 

 

なめられたもんだ

 

 

たとえ今がどん底だとしても、海底の砂を蹴って、トビウオのように海面を跳ねてやる。

 

 

おれは東京、大都会という大海原で、流されながらも、流木でいかだを作るんだ。

 

ボロボロのTシャツで帆を張って、がむしゃらに漕ぎ続けるのだ。

 

 

パドリング、ひたすらパドリング。

 

 

モンスター級の大波を見事にサーフィンして見せて、満を持して広島に帰るんだ。

 

 

砂浜でご主人の帰りを待っている忠犬ハチ公顔負けの柴犬を目いっぱい撫でてやる。

 

 

海底で拾った海賊船のお宝を売って、軽トラックを買うんだ。

 

 

助手席の窓を半分開けて、気持ちのよさそうに顔をのぞかせた柴犬を乗せて、凱旋パレードだ。

 

 

 

その日が来るまで、おれにはまだ出来ることがあるだろう。

 

 

がんばれ、たくろう。

 

 

痺れる右足を堪えながら、片膝を立てる。

 

 

ご浄土で高橋に罵詈雑言を浴びせる為には、こんなところでくたばるわけにはいかないだろう。

 

 

頑張ってやろうじゃないか、たくろう。

 

 

立てた右膝に手を突きながら、痺れを受け入れてゆっくりと立ち上がった。

 

 

そして、さんざん宗教の悪口を言っておきながら、手を合わせて目を瞑る。

 

 

 

なあ、高橋。

ご浄土にはセブンイレブンがあるのかい。

 

 

 

膝から崩れ落ちるように、畳に顔がこすれた。

 

 

涙は出ていない。

 

 

ただ、足がもの凄く痺れただけだ。

 

 

それだけだ。

 

 

16:40

6.夜が明けたら 9/24 0:13

 


夜の帳は、地面に残った子供達の痕跡を包み込むように辺りに鎮座していた。

ブランコと鉄棒、タコの形をしたアスレチックの遊具が設置された第二公園の一角、手狭なグラウンド脇のベンチに栄治は陣取っていた。

Tシャツに羽織ったパーカーのポケットからラッキーストライクを取り出すと、一本に火をつけて月が霞む夜空にゆっくりと煙を吹きかけた。

 

昔から不良が多いと有名な此処近辺では、その名残を受け継いでか最近になっても原付にがに股で跨がった未成年の集団を見かけることが多い。

ここ第二公園も、その集会場所として使用されることが多かったことを懸念していたが、26時を回った今夜の公園に栄治以外に人影は無かった。

 

気が付けば、遠くの方で虫が鳴いていた。

ずっと前から鳴いていたのかもしれないし、たった今鳴き始めたのかもしれない。

時季を感じさせるその響きは、懐かしいような既視感と、季節の終わりを告げる物寂しさを含んでいた。

 

四隅にある入り口の内、遊具側から莉菜が歩いてくるのが見えた。

足元で煙草をもみ消すと、一つ深呼吸をした。

 

「自分で呼び出しておいてなんだけど、まさか本当に来るとは思わなかった。」

 

「じゃあやっぱり帰ろうかな。」

 

冗談だよと笑う栄治に毒づきながら、莉菜はベンチの隣に腰掛けた。

 

「今日は面倒な客は来なかった?」

 

「面白い客なら来たけどね。」

 

軽く雑談を交わし、ひと段落落ち着いたところで栄治は話し始めた。

 

「俺は夜が嫌いだよ。暗くて周りが見えないのをいいことに、余計なことばかり考えてしまう。」

 

ため息混じりに力無く笑った。

 

「私は夜、好きだけどな。」

 

少し間を置いて、莉奈は返した。

 

「みんなが寝静まった夜なら、誰にも干渉されずにいれるから。

 いつも思うんだよね。このまま、夜が続けばいいのになって。明日なんて、来なければいいのになって。」

 

そう憂う横顔は儚く脆く、そして綺麗だった。

 

考えたこともなかった。

 

このまま夜が続いたとすれば。

屏風に描かれた虎を縄で縛ることは一休でも不可能だ。

 

でも、栄治にとって苦痛であるそれだとしても、彼女が望むのなら。

明日が来ないことを、莉奈が望むのだとすれば。

 

「じゃあ、ずっと起きていようよ。」

 

目を合わさず、靴のつま先を見たまま言った。

 

「ずっとこのまま話をしていればさ、いつ明日が来たのかわからないよ。」

 

 欠けた月が、公園の二人を仄かに照らす。

 

「じわじわ夜明けを見させられるなんて、ただの拷問だよ。」

 

そう尖りながらも、どこか楽しそうに莉菜は笑った。

 

「いいの私は。もうさ、何かを期待したり、何かを追いかけたり、なんか疲れちゃってさ。

 例えばサラリーマンの父親がさ、こう在れと説いたところで、父親の人生としての正解か不正解がサラリーマンだっただけで、それ以外の人生を知らない人に語れることはないと思うんだよね。

 60歳の人が20代としての生き方を若者に説いたところで、その人にとっても二十代は一度しか経験してないことでしょ、最初の一球だけでピッチャーは評価できないよ。

 何歳であろうと、生まれ変われない限り、みんな人生のアマチュア。

 だったら、正解なんてわかるはずがないし、もちろん、わかるものであっても困るんだけど。」

 

微笑みを浮かべる口元からは、おぼろげな諦念が感じ取れた。

それを見て、莉奈と周りの友人を比べたときに感じる違和感の正体がなんとなく、理解できた気がした。

 

それは達観と言うよりも、理解を諦めた、純粋であって推し量ることのできない、紛れもない諦念だった。

 

「莉奈って、なんだか大人だね。」

 

片や自分のことで精一杯であるのに、人生についてここまで考えて、自分なりの結論を導いている存在を横目に、居心地の悪さを感じた。

 

最初の一球だけでピッチャーは評価できない。

確かにそうだ。

だとすれば、自分にとって22歳はボール、じゃあ来年は、ストライクを投じることができるだろうか。

 

「栄治はさ、大人って、どういうことだと思う?」

 

莉奈は栄治の方を見ることなく、尋ねた。

 

「20歳を越えたら社会的には成人として認められているよね、お酒も煙草も買えるようになるし。」

 

「なら、栄治は自分が大人だと思う?」

 

「それはどうかな、成人として自覚って言うか、子どものままじゃいけないなって思いはあるけど、やっぱり親父とか先輩とか見てるとまだまだ子どもだなって感じることもある。」

 

「私の考えるところはそこであってね。

 例えば、その栄治の先輩にしたって、そのまた先輩のような存在があれは何歳になっても「まだまだだな」って思うことがあると思うんだよね。」

 

「うん。」

 

「法律とかを抜きにしたときの“大人”っていうのは、年齢は関係ないと思う。

 だって、さすがに50歳になって子どもっていうのは無理があるし。」

 

「それはそうだ。」

 

「つまりね、大人になる瞬間っていうのは、誰かに「大人だな」って認められたときなんじゃないかなって。

 さっきの先輩の件にしたって、年齢云々を抜きにして後輩に“大人”って思われたときがそれに値するんじゃないかな。

 言ってしまえば、バイトの後輩に大人ですねって思われた時点でその人はもう大人なんだ、ってね。

 こればっかりは、年齢を無視したとき明確に線引きすることは難しいけど、

 狭義での”大人”っていうのは自負とか自尊じゃなくて、他人からの評価なんじゃないかな。

 他人に大人だって思われたとき、その他人にとってはその人はもう大人なんだよ。」

 

栄治は意見を持てないで腕を組んで夜空を見上げていた。

 

誰かに認められたとき。

今の自分を、誰が評価してくれるのだろうか。

 

騒がしい声が耳に入り込んできた。

今夜もやはり未成年の集団がやってきたのかとうんざりして声の方に目をやると、「高崎お前はな」と高崎の首に腕を回した年嵩の男と、それを見ながらげらげらと笑う男が公園へ入るところだった。

確認するまでもない、高崎とは昼間の学生、げらげら笑っているのは店で眠っていた男、今夜来店した三人組だった。

 

相当酔っているのだろう、肩をぶつけ合いながら、歌っている。

 

飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで

飲んで 飲みつぶれて 眠るまで 飲んで

 

 

「公園は憩いの場所です。」

 

同じ様にその光景を眺めていた莉奈がぼそっと呟くので、栄治は少し笑った。

 

「全く、参ったなあ。」

 

タコのアスレチックで心底楽しそうに走り回るいい年の男達の姿に、馬鹿みたいだと莉奈の口癖を真似て吐き捨てる反面、そんな仲間が居ることに若干嫉妬した。

 

漠然と光景を眺めていると、急に高崎が地面で腹筋を始めた。

それを見ながらあとの二人はげらげらと笑っている。

 

「荻原さん、こんな腹筋したって、何の、意味も、ないんじゃない、ですか」

 

高崎は律儀に腹筋を続ける合間に、抱いて当然の疑問を投げかけた。

 

「努力せん奴に成功はないねん。」

 

”荻原さん”なる男は、さも正義側のように毅然として言い放った。

 

「この努力が、報われるときは、果たして、来るのかな、拓朗」

 

拓朗と呼ばれた男はげらげら笑うだけだった。

 

「確かに、努力は必ず報われるとは限らんけどな。
 
 でもな、成功する奴は必ず、努力しとんねん。」

 

荻原さんは満足気に深く頷いた。

 

「俺今エエこと言ったな、お前今から家帰ってノートに百回書いてこい。」

 

指名された拓朗はげらげら笑いながら公園から姿を消した。

しばらく腹筋を続けた高崎は、徐ろに話し始めた。

 

「昨日、バイト前に、趣味が同じだって、連絡くれた人と、会ってきたんですよ」

 

遊具に腰掛けて煙草に火をつけた荻原さんは、黙って高崎の話に耳を傾けた。

 

「自分嬉しくて、その人、話すことも頭よくて、俺の為に言ってくれてる、って思うと、何か、裏切れないなって」

 

ペースを落としながらも、高崎は腹筋を続けた。

 

「俺はそいつがどんな奴かもわからへんし、お前が何を言われたんかもわからんけどな。

 でもな、高崎が信じてもええって思える奴なら、そうしたらええねん。

 仮にそいつが悪い奴やったとしても、こいつになら騙されてもええって思える奴なら、

 信じてやったらええやん。」

 

「俺馬鹿だからそういうの鈍いんすよね。

 でも、その人はきっと”いいやつ”ですよ。

 あの映画が好きな人に、悪いやつはいないですから」

 

高崎は地面に仰向けになってえへへと笑った。

 

「なに勝手に腹筋やめとんねん」

 

荻原さんは馬乗りになって高崎の脇腹をくすぐった。

 

「やめてください、やめてください」

 

がははと二人は笑いあった。

 

 

「なに、あれ。」

 

莉奈は我慢できないといったように吹き出した。

 

許されたいから許すのは、間違った思想かもしれない。

 

今まで傷つけた分だけ、いつかの誰かを救えるわけもないかもしれない。

 

でも、でも。

 

でも、夜が明けたら。

 

この夜が明けたら。

 

許されるような、そんな気がして。

 

今日だけは、この夜明けを、彼女は望んで迎えてくれるような、そんな気がして。

 

「ほんと、馬鹿みたいだ。」

 

明日、高崎に連絡しよう。

 

頬を伝う涙に、きっと莉奈は気がついているのだろう。

 

その横顔は相も変わらず儚くて、触れたら壊れてしまいそうだけど、諦念のない微笑みに、救われたような、そんな気がした。

 

 

夜が明けるよ

 

夜が明けるよ

 

ほら、夜明けだ

 

 

きっと彼女は、こう言って笑ってくれるだろう。

 

 

「馬鹿みたい。」



 

====================================



 

街灯のまばらな夜道をふらふらと、帰路を辿った。

 

飲んでー、飲んでー、 飲まれてー、飲んでー

 

河島英五の“酒と泪と男と女”、名曲だ。

 

飲んでー、飲みつぶれて眠るまで、飲んでー

 

宅配寿司屋の飲み会帰り、きっと荻原さんと高崎はキャバクラに行ったのだろう。

 

俺はと言うと相も変わらず金欠病を患っているからとその誘いを断り、一軒目で早々に退散したのだった。

 

 

もしかしたら、二軒目以降でこんなストーリーがあったのかもしれない。

 

そうだな、ネズミ講にハマった栄治くんに、何かを諦めた莉奈ちゃん。

 

莉奈ちゃんの口癖は、きっとこうだ。

 

 

 

馬鹿みたい。

 

 

f:id:tatakuchan:20161207191207j:plain

 

 

 

0:08

5.The SEA 9/24 1:01



 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

 

「安定安定って世間ではよく言いますけど、アンテイってどういう字を書くか知っていますか。」

 

目の前にいる世間もよく理解していない“幸せ”な学生を眺める。

羨ましく、恨めしく、いたわしい。

 

「安く定められている、と書いて安定と読むんですよ。そんな事にも気が付かず、安定だと騒ぐのは正直、馬鹿ですよ。」

 

よく言うよ。

本当に馬鹿なのは自分だ。

あのメッセージさえ無視していれば。

悔やんでも悔やみきれない程には、もう手遅れだった。

 

交友も講義も惰性でこなすようになった大学三年の時分、賢二さんからSNSを通じてダイレクトメッセージが届いた。

他大学生からの突然のメッセージに驚きつつも、こんな出会いもあるのかと浮かれていた自分の愚かさを憎む。

 

連絡をとる気になったのは、同じ漫画が好きだとわかったからだ。

確かに万人受けする内容では無いが、独特の世界観に引き込まれるその作風は、友人の間でも自分くらいしか好んで読む人間はいなかった。

共通の趣味があることで意気投合し、心を許すまでもそう時間はかからなかった。

 

何通かメッセージを交換した後、賢二さんとカフェで会う約束をした。

そして、おいしい話があると聞いたとき、自分だけに教えてくれたのだと嬉しくなった。

 

安定っていうのは、どういう字を書くか知ってるか。

安く定められているって書くんだ。

そんな世界に喜んで飛び込んでいくなんて、馬鹿のすることだ。

 

騙されているなんて、疑いもしなかった。

 

 

「収入を水、仕事を用水路だとしますね。あなたの住む家に、川から水をひく用水路を作ります。」

 

持参したペンでノートに一本の川を描き、少し離れたところに家を描く。

そして川と家を一本の線で繋いだ。

 

「この線が用水路、収入を得る為の定職です。これが太いと多くの水、つまり収入を多く得ることができ、細いと得られる水も少なくなる。世間では、これが太い事を安定と呼びます。」

 

目の前の学生は顎をこすりながら、なるほどと言ったように頷いた。

 

「でも、その安定だという仕事だって途絶えてしまえば収入はゼロになる。」

 

用水路に、斜線を引く。

 

「これのどこが安定ですか。会社が潰れたり、クビになったり、自分は大丈夫だという保証はどこにもありません。」

 

用水路の絶たれた家の隣に、もう一つ家を描く。

 

「真の安定と言うのは、一本絶たれても他に三本四本、収入源がある姿のことです。」

 

新しく描いた家に、川から四本の線を繋げ、その内の一本に斜線を引く。

そして残った三本を繰り返しなぞり、強調する。

 

「この用水路、つまり収入源を増やすお手伝いを、僕たちはしています。」

 

ペンを置き、とうの昔に冷めきったカフェラテで喉を潤す。

 

「時代は変わります。一つの定職だけで安心する時代は終わろうとしています。そうなったとき人々はどうするか。それはここに書いたように、副収入を求めます。でも気付いたときには遅いでしょうね。周りには失業者ばかりだ。」

 

先程から学生は唸ったり、感心したように頷いている。

こんな学生ばかりで、日本の未来が本当に心配になる。

 

一年前の自分が、目の前の学生に重なる。

そんな話あるわけないと、目の前からさっさと姿を消してくれと願いながら、愚かだった自分の影を前に、あの日の賢治さんになりきる。

 

いいか、経済はバブルで一度底を打った。

そこから今、徐々にではあるがまた上昇傾向にある。

でもな、それも長く続かないことは誰の目から見ても明らかなんだよ。

あの漫画が好きな栄治は悪いやつじゃないってわかる、だから栄治には特別に教えといてやるけどな。

 

そう言いながらにやりと笑う賢二さんに、俺は幸運だと噛み締めたのを覚えている。

 

「僕も来年就職しますが、もちろんそこだけで収入を得るわけではありません。これからの社会で少しでも幸せな人が増えればいいと思って、趣味も同じで、僕と同じ就活を控えた学生だったこともあって声を掛けました。」

 

彼とは二週間前にTwitterで知り合ったばかりだ。

知り合った、とは言ってもこちらが一方的にメッセージを送っただけだった。

わざわざ街で声を掛けなくても、友達の友達、その先までSNSを利用すれば簡単に連絡をとることが出来るのは、便利でありやはり脅威でもある。

自分がそうであったように、同じ学生相手ならば気を許し易いこともターゲットの条件となる。

ターゲットの過去の投稿を簡単に見返し、興味のありそうな分野を探る。

 

賢二さんもきっとそうしたのだろう。

本当はあの漫画だって興味も無いのに。

 

今回の学生の場合は映画だった。

例えば「自分もあの映画好きなので親近感湧きました」といったようにコンタクトをとれば、三人に一人は返信してくる。

そこから何とか二人で会う口実を繕い、今日のようにゆっくり話のできる場所に呼び出し、落としにかかる。

知らない人について行ったらだめ、とはよく言ったもので、子が大学生になっても親は釘を刺すべきだ。

 

おいしい話、とはつまり、こういう仕組みだった。

ショッピングモールで売れ残った商品は、アウトレットモール等で価格を下げて売られる。

そこでも売れ残った商品を、“本部”では買い取っていた。

詳しくは知らないが、賢二さんの話によれば只でさえ値下げしても売れない商品だから、買値としては破格らしい。

 

会員になれば、その本部が所有する商品を自由に扱うことが出来る。

もちろん自分で使用することも可能だが、それをオークションで転売する事で、利益を上げるのだ。

 

入会金として15万円が設定されていた。

ただ、オークションをしていれば15万なんてあっと言う間に稼ぐことができると賢二さんは話した。

バイトも辞めて、就活に専念出来る上、収入も得ることができるからこんなにいい話は無いと、学生に釣り合わない高価な装飾品を身に着けた賢二さんの言葉には説得力があった。

 

そうはいっても、最初の壁として学生にとって15万円は大金で、簡単に用意出来るものではない。

どうしても難しい場合、本部から入会金を借りることが出来る。

やはり何割か増しての返済になるが、例によってオークションをしていればそれも大した問題ではないと、その言葉を信じた。

冷静になれば、そんな上手い話なんてある訳が無いことは火を見るより明らかだったのだが、当時の自分は賢二さんのようになりたいと、直ぐに入会を決めた。

 

確かに商品の在庫は多かった。

賢二さんの助言の通り、何度も出品してみたはいいものの、所詮は売れ残りなだけあって、まともな値段はつかなかった。

もちろん15万円なんて到底稼ぐことは出来ず、非情な金利の借金は日に日に膨らんでいく一方だった。

 

いよいよ首の回らなくなったとき、賢二さんから“紹介制度”を教わった。

簡単な仕組みで、自分の紹介により誰かが入会すれば、そのバックとして三万円貰えるといったものだった。

所謂、マルチ商法の類だった。

勧誘を重ね、ピラミッド状に組織が形成されていく。

実情は、上層部のみが潤い、下層部には殆ど恩恵が無いと、しばしば社会的に悪徳商法と問題視されてきたが、実はルールさえ守っていれば法的に全く問題がない。

 

からくりに気付いたとき、賢二さんは話してくれた。

 

「俺も最初はまんまとやられたよ。とてもじゃないがあんな商品さばいて15万なんて稼げる訳がなかった。そこでの紹介制度だよ。おいしい話があると最初言ったが、あれもあながち嘘でもない。口の巧い奴にとってみれば、確かにこんなにいい話はない。もちろん最初は罪悪感があったが、こっちもそれどころじゃないからな。まあそのお陰で、直ぐに返済してやったよ。」

 

 

帰り際、学生は他意のない笑顔を浮かべ「今日はありがとうございました。」と礼を述べた。

 

「こちらこそありがとうございました。また連絡しますね、高崎さん。」

 

このまま返事なんてしてくれなくていい。

 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

この現状もこれはこれで、確かにそうだと、自嘲した。

 

自分が底へ歩いているのがわかる。

上を目指していたはずの道はいつの間にか下り坂に変わっていて、止まるには遠くまで歩きすぎた。

振り返ったとき、一本だったはずの道が枝分かれしていたことに気が付く。

あの時こうしていれば、その繰り返しで、それでも歩き続けるしかなかった。

 

いつか見た、ダイバーの映像を思い出す。

頭部にカメラとライトをつけた彼は海底を歩いている。

暗闇を僅かに照らすライトによって、徐々に深くなっていくことが映像ではっきり確認出来るが、彼は歩みを止めず進む。

そのダイバーが何故危険と知りながら深い海底へ歩き続けたのか、それは誰にもわからない。

そして映像はフェードアウトし、英語の字幕は彼が絶命したことを伝えた。

 

ただただ、深く、黒い海底へ歩き続ける。

毎晩の就寝前、暗闇の中で、自分があのダイバーのように海底を歩き、自分がその映像を見ているような錯覚を覚える。

一方で引き返せないと焦る自分、一方ではそれを他人事のように俯瞰している自分。

消し去ることの出来ない映像に瞼をきつく閉じ、睡魔が深い眠りに導いてくれる瞬間を待ち続ける。

 

いっそ海の中に沈んで、上を見る砂になりたい。

この捌け口を失った感情が溜まって、部屋を満たして、海になればいい。

青い青い、海になればいい。

 

莉奈と話がしたいと思ったのは、なんとなくだった。

悩みを打ち明けたい訳じゃないけど、なんとなく、声が聞きたかった。

今日の仕事終わり、誘ってみようかな。

そんなことを考えながら、調布駅前のカフェを出た。


東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

自分と違いまっとうに人生を歩んできたのであろう男性客を横目に、ただお酒を運んだ。

 

常連の男が帰ったあと、非常階段で似合わない煙草を吸う莉奈に話かけた。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

莉奈の口癖だ。

彼女は客の前でも、同僚の前でも、僕の前でも素顔を表さない。

いつもどこか遠くを見ていて、確かにそこにいるんだけど、存在自体がフィクションじみていて、この世界の住人じゃないように思えるときがある。

足を踏み外した自分でも、彼女なら受け入れてくれるんじゃないかって思うことがある。

きっと打ち明けたとしても、馬鹿じゃないのと、笑ってくれるんじゃないかって、そう思う。

 

このまま今日は閉店かなと思っていた矢先、三人組の男が来店した。

席に案内して飲み物を尋ねた際にぎょっとした。

年嵩の男に、席に着くなり眠りかけている男に、もう一人は昼間の学生、高崎だった。

彼はそうとう酔っていて、幸いにもこちらに気がついていないようだった。

顔を合わさないように、そそくさとバックルームに戻った。

 

途中、ちらりと席を覗けば高崎が莉奈の胸に手を伸ばしかけていたところだった。

それを莉奈が優しく制し、がははと笑っていた。

俺は莉奈ともっと仲が良いんだぞと叫び出したかったが、ぐっと堪えた。

少し羨ましく感じたのは、気のせいだ。

 

f:id:tatakuchan:20161125163537j:plain



1:01

4.Girl meets NUMBER GIRL 9/24 1:05

 

「莉奈ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる太い腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

後退した額を手で叩き、ぜい肉を蓄えた腹を揺らしながら客は笑った。

グラスに浮いた水滴をおしぼりで拭き取り、客がキープしているお気に入りの焼酎で水割りを作る。

傾けたボトルには私の手書きのタグが掛けられていた。

“すざわっち”

バカじゃないのかって、思う。

この須沢という男にも家庭はある。

高校生の娘と、大学生の息子がいるんだと、いつかの来店時に自慢気に教えてくれた。

こんな男が父親だなんて、二人の子と奥さんを思うと不憫で仕方がない。

 

「久し振りにすざわっちの歌聞きたいな」

 

「じゃあ今日は歌っちゃおうか」

 

東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

例によって今夜も、店内には“すざわっち”の他に、サラリーマンの四人組、何をやっているのかわからない男二人と、常連の年寄りが一人だけだった。

 

「失礼致します。」

 

声の方にちらりと目をやると、自動扉を開けたアルバイトのボーイである栄治が水割り用の水と氷を運んできたところだった。

 

VIPルームと銘打たれたこの個室は、来店の少なさも相まって、皮肉にもこの客の為に使われることになった。

他のテーブル席とは異なり、自動扉と軽い防音構造になった壁に囲まれた一角に四人掛けのソファーがL字に置かれ、絨毯が敷かれた床は足音もせず、天井にはこの町に相応しくないシャンデリアがきらきらと輝いていた。

 

テーブルに新しい氷と水を置いた栄治は、空いたトレンチを脇に挟むと片膝をついた。

 

「三番をお願い。」

 

「かしこまりました。」

 

その姿勢のままきっちりと頭を下げ、溶けかけた氷とカラになった水のボトルをトレンチに乗せて栄治は部屋を去った。

 

三番、とはウーロン茶のことだ。

この店ではキャストがドリンクを頼む際、番号による隠語が取り決められていた。

お酒に強いキャストなら客のキープボトルを一緒に飲んだり、例えば五番のビールなどを頼む。

一方私のように多く飲めない場合は、今のようにウーロンハイと偽ったウーロン茶を飲むことでその場をしのいでいた。

幸い、店内の照明の関係で顔の赤さなどは気にならないので、客がそれを飲んだりしない限りはバレることはなかった。

 

「哀れなあの子 涙に濡れて」

 

“すざわっち”は分厚い瞼を閉じて、若い頃から好きだという浜田省吾を熱っぽく歌っていた。

私はもちろんこの曲を知りもしないが、こういったバラードであれば、客の手を握りながら曲に合わせて揺れておけばいいと、先輩の楓さんが教えてくれた。

 

やけに長い曲に揺れることすら面倒になった私は、大きな肩に頭を預けた。

何を勘違いしたのか、握る手に力を込めた“すざわっち”の歌唱は更に熱を帯びだした。

 

馬鹿じゃないのかって思う。

話をしてウーロン茶を飲んで、たまに揺れるだけでお金が貰えるならこんなにいい話はなかった。

 

大学の友達や両親は、危ないよ、だとか、自分を大切にしないと、だとか、そんなことばかり口を揃える。

ちゃんとしたバイトをしろって、これのどこが“ちゃんとしてない”バイトだって言うのか。

需要と供給を伴って経済活動と呼ぶのなら、この仕事ほど分かり易く体現しているものはない。

女と喋りたい男と、金が欲しい女。

逆もまた然りだ。

 

すざわっちは相変わらず大きなお腹を揺すって歌っていた。

こうして誰かの手を握ると、あの日を思い出すことがある。

あの部屋、光景、臭い、記憶が断片的に、喉に挟まった小骨のように、忘れかけた頃にちくちくと煩わしい。

 

初体験は大学一年生の夏休み、サークルの先輩が相手だった。

 

私は彼に好意を寄せていたし、彼も同じ思いを抱いているのだと思っていた。

 

地方から進学の為に上京してきた私は調布市のアパートに部屋を借りており、 大学までは京王線で一本の位置だった。

 

その日、 サークルの飲み会のあと、特に仲の良かった五人で飲み直そうと私の部屋に移動した。

 

私はブランケットを膝に掛け壁にもたれて、隣に座っていた先輩と隠れて手を握っていた。

 

冷房で肌寒いのに、緊張と高揚で手のひらは汗ばんで、お酒のせいなのか喉元まで心音が弾んでいた。

 

そして皆が眠ったあと、常夜灯の照らすワンルームの端で、手を握ったまま先輩とキスをした。

 

長いキスは初めてだったし、 周りに皆がいることを思うとバレてしまうのではないかと気が気でなかった。

 

翌朝になると皆はバイトや予定などのため部屋を出て行った。

 

お酒の空き缶や食べかけのおつまみの残る部屋で昨晩のことを思い返していると、玄関のドアがノックされた。

 

先輩は携帯の充電器を忘れたと一人戻ってきた。

 

ちょっと待っててくださいと部屋の内に戻ると、いきなり後ろから抱き締められた。

 

突然の挙動に驚く間もないまま、半ば押し倒される形でベッドに倒れ込んだ。

 

空き缶が音を立てて床に転がる。

 

やめてくださいと口に出しながらも、どこか期待があったのだろう、 Tシャツを下着ごとたくし上げられ胸が露わになっても、それほどの抵抗はしなかった。

 

彼の息づかいは荒く、貪るように身体を舐められる最中も、優しさは感じなかった。

 

彼が私の腹上で果てた後、汗と血と体液の染みたシーツを脱衣場の洗濯機に放った。

 

その時の感情はよく覚えていない。

 

初めて異性と結ばれた充足感か、大事なものを棄ててしまった喪失感か。

 

部屋に戻ると先輩は既に着替えを済まし、バイトがあるからとそそくさと部屋から出ていった。

 

その瞬間、幾つかのことを悟った。

 

恐らく今後、先輩との関わりは殆ど無くなるだろうし、先輩に対する好意も殆ど冷めてしまうだろうし、これから先、男の人を愛せないかもしれない。

 

不快な粘着感が肌にまとわりつく冷房の切れたワンルームの端で、昨晩手を重ねたブランケットにくるまった。

 

馬鹿みたい。

 

アルコールとさきイカと男女の抜け殻、それらが混ざった臭いが、未だに鼻腔にこびり付いて私に問い掛ける。

 

大事にする、“自分”って何だろう。

 

「莉奈ちゃん、また来るね。」

 

「うん、また明日ね。」

 

「明日はどうかなあ。」

 

額を手で叩きお腹を揺すって笑う“すざわっち”がタクシーに乗り込むのを見届けると、エレベーターで三階にある店内へ戻った。

バックルームで化粧を直し、店舗裏にある非常階段でバージニア・エスに火をつけた。

煙草を吸い始めたのはストレスや自暴自棄ではなくただ、なんとなく。

 

身の回りのことが“どうでもいい”とは昔から感じていたけど、決して否定的な意味ではなかった。 

最初から皆と同じ様な順風満帆な人生を歩めるとも考えていなかったので、大学に入学したことさえ我ながら驚く行動だった。

 

他人と同じ道が嫌なのではなくて、 嫌なことを避けていたら他人と違う道を進んでいた。

人生なんて人の数だけあるのに、マイノリティだけを否定するのっておかしいし、可笑しい。

世間の評価なんて私にとって関係ないし、“どうでもいい”のだけど。

 

「莉奈、ちょっといいかな。」

 

振り向けば、非常階段へのドアから栄治が覗いていた。

 

「だから、仕事中はタメ口やめてって。それと、あんまり話し掛けないでって言ってるでしょ」

 

それには特に返さず後ろ手で音を立てずドアを閉めた栄治は、 一本貰ってもいいかなと人差し指を立てて笑った。

私は大げさにため息をついて仕方なくといった仕草でバージニア・エスを渡した。

 

「でも、こんなの女子が吸うものだよ。」

 

「吸えれば何だっていいんだ。」

 

栄治は一口吸い込むと顔をしかめ、続けざまに更に一口吸い、階段に置かれた客用の灰皿の上でとんとんと灰を落とした。

 

「あの須沢って男、完全にハマってるね。莉菜も指名料が弾むんじゃない」

 

「どうだっていいんだけどね。私と話して何が楽しいんだか。若い女だったら誰だっていいんじゃないの。」

 

「莉菜と話をするのは楽しいよ。」

 

口元に優しい笑みを浮かべる栄治に動揺を悟られぬよう、すぐに返した。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

店の方から来店を知らせるベルが聞こえた。

 

「ごめん、今日上がった後少し話せないかな。第二公園で待ってるから。」

 

栄治は慌てて煙草をもみ消すと、返事も聞かずに店の中に消えた。

 

ただでさえ馬鹿な男と話をして疲れているし、早く帰って化粧を落としたいし、それに公園だなんてありえない。

 

でも、話ってなんだろう。

 

妙な期待をしていることに気が付き、呆れたように頭を振った。

 

あの日の自分が階段の上に座り、馬鹿みたい、と私を見下ろしている。

 

期待には二種類あると思う。

一つは、応えるもの。

自分が他人(ひと)の為に応えたり、誰かが応えてくれたり。

もう一つは、裏切るもの。

裏切ることもあれば、裏切られることもある。

 

私の人生において期待の定義とは、圧倒的に後者だ。

裏切られるのは、期待をするからだ。

期待しなければ、裏切られることはない。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

一人呟くとドアを開けて店内へ戻った。

 

「莉菜ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、がははと笑う大学生風の男。

 

「高崎お前何してんねん」

 

その隣に座っていた年嵩の男が“高崎”の頭を叩いた。

 

「だって気になるじゃないですか、荻原さんは莉菜ちゃんが何カップかわかるんですか。」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を受け止め、膝の上に戻す。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、“高崎”と“荻原さん”は一緒にがははと笑った。

 

このテーブルについたのは私と19歳の柚(ゆず)だった。

“高崎”は柚にすがるようにして話しかけた。

 

「柚ちゃん、俺の悩み聞いてよ、昨日バイト前にね」

 

“高崎”が話し出そうとすると“荻原さん”がすかさず制した。

 

「だから、お前の悩みなんて興味ないねん。それにお前、さっきの店でなんか決めたって言ってなかったか。」

 

悩み、私の悩みってなんだろう。

出てこないってことは、何も悩んでないってことなのかな。

それはそれで、良いことかもしれないし、それもそれで、良くないことにも思える。

 

「えーなんですか気になるなー」

 

 柚は感情のない台詞を感情を込めて読み上げた。

 

「でも俺、荻原さんみたいに、一人で抱えて一人で解決できるほど強くないんすよ。」

 

泣きそうな表情で高崎が訴えた。

 

一人で抱えて一人で解決する。

私にとってそれは当然のことだったけど、もし、相談できる人が周りにいれば、もっと楽に生きれるのかな。

 

「例えばな、喧嘩が強い奴ってのは、殴られた痛みを知ってんねん。その痛みを知らん奴が、最近ニュースでも見るけど相手を死なせてしまったりしてんやろな。数こなしてる奴は“あ、これ以上やったら死んでまうな”とか加減がわかんねん。」

 

荻原さんが煙草を咥えたので、すかさずライターで火を付けた。

すまんなと片手を上げ、続けた。

 

それと同じでな、人生でもどん底見てきた奴はやっぱ強いねんな。

落ちるのは簡単やけど上がるのは難しいってよう言うやろ。

逆に、底まで落ちるのも簡単なことやないからな。

どん底経験して、それでも這い上がってきた奴って、やっぱ強いねん。

上も下も見ずに平々凡々の人生歩んでる奴のほうが、弱いこともあったりすんねん。

だから、例え今悩みがあるんやとしても、それは将来的に見たらチャンスやろ。

どうせ落ちるなら、今の内にどん底見といたらええねん。

 

荻原さんは視線こそ高崎に向けているが、その言葉を私に向けているように感じたのは、きっと気のせいだろう。

 

「ま、人生なんて結果論やからな。いつがピークやとか、振り返ってみんとわからんけどな。」

 

荻原さんが吸う煙草の先が、オレンジに光る。

煙をゆっくり吐き出しながら水割りを指でかき混ぜ、グラスを口に運んだ。

 

「つまるところ、今をがむしゃらにやるしかないんやろな。その地点を底とみるか天井と捉えるかも自分次第だったら、他人よりもまず、自分で評価してやることが大切やと思うけどな。」

 

なんとなく、栄治の笑顔が頭に浮かんだ。

 

莉奈と話をするのは楽しいよ。

 

公園に行ってみようかなって思ったのは、なんとなくただ、なんとなく。

 

「高崎、お前はどうや。」

 

「なんかいい話に紛れて論点をずらされてるような気がしますけど、胸が痛いっす。」

 

胸に手をあてながら倒れこむ高崎を、柚が優しく受け止める。

 

「もう一つ教えといたるわ。いい人ほど早死にするらしいで。せやからお前は」

 

「即死ですね」

 

がははと二人は笑い、その笑い声に来店からずっと眠っていた連れの客が目を覚ました。

 

それに気が付いた高崎が声を掛けた。

 

「ところで拓朗は、莉菜ちゃんは何カップだと思う」

 

「どうだろうなあ」

 

と眠たそうに腕が伸ばされる。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

三人はがははと叩き合いながら笑った。

 

ほんと、 馬鹿じゃないの。

 

私も一緒に、笑った。

 

1:05 

 
f:id:tatakuchan:20161110023815j:image