東京 closing down

現実とフィクションと音楽。始まりのエンドロール。 Photo by shun nishimu

closing down - 1 『未完』

 

 


平成が役目を終えた数年後の日本。

 

メダルラッシュの快挙に、大盛況のまま幕を下ろした東京オリンピックが残したのは、役目を失った乱立するコンクリートと、大勢の失業者だった。

 

活気は失われ、まるで空気が鉛でも含んでいるかのように、国全体がどんよりとしていた。

 

東京・渋谷。

 

宮益橋から流れる渋谷川に沿って恵比寿方面、入り組んだ路地に迷い込んだ、とあるアパートの裏手には、地下に伸びる階段がある。


降り口にはセンサー式のライトが設置されており、急な勾配の階段を申し訳程度に照らす。

階段を降り切った踊り場の壁には、コンビ名が羅列されたタイムスケジュールが貼られていた。


その隣、傾いたホワイトボードには不親切であるが分かりやすい殴り書きがある。


”第百十八回笑撃王決定戦”


トラジは一つ息を吸って重たい扉を開くと、半畳ほどのスペースが現れた。

 

怒声と笑い声が微かに漏れている。


扉は二重になっていた。


さらにもう一枚、扉を開くと、溢れ出すように熱気を孕んだ人の気配がトラジを包み込んだ。

 

視線を前方にやると、眩しいスポットライトを浴びて、スーツをまとった男が二人、マイクを前にやりあっている。

 

「教習所の教官が全裸だったらおかしいだろ」


「ほら、ここをこうすると…気持ちいだろ、国貞君。ほら、風が気持ちいいぞ」


「何故。教習車がオープンカー仕様なのは何故」

 

向かって左手、背のひょろっとした男がハンドルを握る姿勢のまま、哀愁漂う表情で嘆いた。

 

隣で教官を演じている男は、手を大きく広げて恍惚の境地に耽っている。

 

決して広い会場ではないが、どこから聞きつけたのか満席の客席では、笑い声がうねる。


トラジは扉の前に立ったまま座席にもつかず、しばらく二人から目が離せなかった。

 

東京にもまだ、希望はある。

そうだ、まだ終わっていない。

イメージを描く。

常識という壁を越える、放物線。

そのまま消えてしまうかもしれない。

それでもいい。

どうせいつかはみんな、骨になる。

それでもいいさ。

 

「教官、後ろからすごいパッシングされてるんですけど」

 

「来たか…奴は二十年もの間、仮免試験に落ち続けている、ベテラン教習生の相沢だ」

 

「さっさと辞めちまえよ」

 

「奴にはそんな常識は通用しない、国貞君、スピードを上げるんだ。相沢をまくんだ!」

 

「何故。執拗に相沢が煽ってくるのは何故」

 

 

そのコンビが舞台から消えるのを見送って、トラジは会場を後にした。

 

静かな夜だった。

 

大型モニターには「かんばろう日本」の文字が躍っている。

 

酔っ払いがハチ公像にすがりつくように眠っている。

 

その脇の吐瀉物を、自動清掃ロボットが気にしている。

 

深夜0時のスクランブル交差点には、少なくとも、人の賑わいはない。

 

そう遠くない未来、舞台はここ、東京。

 

 

***

 


2020年の東京オリンピック

 

日本勢は大健闘し、日本中が沸いた。

 

経済効果は30兆円を超え、予想を大きく上回った。

 

勢いそのまま日本経済は右肩上がり、熱狂を引きずった日本は再度バブル期を迎えたのだった。

 

年々減少する学生を、各企業は確保するために奔走した。

 

世は「究極の売り手市場」、当時広島県の私立大学に籍を置いていたトラジもまた、人員争奪競争の例に洩れなかった。

 

トラジが選んだのは、東京中央テレビ、通称TCTだった。

 

民間放送局の中でもキー局のTCTは前衛的かつ挑戦的な企画が多く、いわゆるM1層(20歳~34歳の男性)から圧倒的な支持を得ていた。

 

特にバラエティには強く、殊更注力していたのは「お笑い」だった。

 

トーク番組をはじめ、ネタ見せが主な番組も様々な仕掛けを用いて、週に5日は放送日を設けていた。

 

トラジはお笑いが好きだった。

 

人が何かを志すには幾つかの要因があるが、中でも大きく影響するのは幼少期の経験だという。

 

それはまさに幼少の頃、トラジの家庭では夕食時、決まってTCTのお笑い番組が流れていた。

 

風呂上りに赤ら顔でビールを飲む父と、優しい母。

 

月に一度は決まって家族で出掛ける、そんな和気あいあいとした家庭ではなかったが、夕食のときの雰囲気がトラジは好きだった。

 

テレビの中ではベテラン芸人の「マリオンズ」が漫才を披露していた。

 

それを見ながら父、母は笑っていた。

 

そのときトラジが思ったのは、「お笑いを見れば家族が喜ぶ」という漠然としたものだった。

 

それから食事のあと、トラジはダイニングテーブルの前に立つと、両親を前にマリオンズの真似事をするようになった。

 

微笑ましく眺める母は、楽しそうに笑ってくれた。

 

小学校、中学校と、トラジは機会があれば奇をてらってクラスメイトを笑わせようとした。

 

その根底には、母に喜んでほしいという、計らない純真な思いがあった。

 

だからトラジがTCTを志望したことも、特に不思議なことではなかったのだ。

 

表舞台ではなく、裏舞台を選んだ、それだけのことだ。

 

あるときTCT内定者が集まって、都内にあるスポーツバーを貸し切っての懇親会が行われたことがあった。

 

トラジは乗り気でなかったが、下手に浮くことを恐れて参加していた。

 

皆酔いもいい感じに回ってきた会の中盤、トラジは同期のある会話を聞く。

 

「配属が報道だったら、表に出てこない社会の問題や権力の暴走を暴くような番組を作りたい」

 

「世の中があらぬ方向に向かわないために、社会の木鐸として機能するべきだ」

 

トラジは居心地の悪さに似た、違和を覚えた。

 

ネットとの軋轢を受けて影響力の薄れたテレビ業界を知っての発言としては、いささか言い過ぎではないか。

 

コメンテーターの一言ですら槍玉に挙げられる時代だ、「社会の木鐸」とは、時代錯誤も甚だしい。

 

その翌日、トラジは採用担当者の杉内に電話をかけ、バラエティ番組制作班への配属を求めた。

 

杉内は驚きを禁じ得ない、といった絶句を披露して、考えを改めるようトラジを説得しようとした。

 

杉内がそこまで止めようとするのも無理はない。

 

一概にテレビ局社員とは言え、もちろん全員が番組制作に携わるわけではない。

 

むしろ積極的に番組制作を行うのは、外部の制作専門の会社だった。

 

局外になった途端、ピラミッド式に予算は絞られていき、末端の制作会社に属するADの給与など凄惨なものがある。

 

結果として潤うのは制作を専門にしない局社員、つまりはトラジら内定者が向かう先であった。

 

局員の平均年収は1500万円を超えると言われ、生涯賃金は6億円弱にものぼる。

 

「究極の売り手市場」とはいえ、倍率も500倍を優に超えるテレビ局員は、花形職業であることに間違いはなかった。

 

一方、外部制作会社となれば実情は暗い。

 

一昔前に流行った「働き方改革」を煽ったのはテレビをはじめとするマスコミだったが、最も是正すべきは他でもないテレビ屋だ。

 

そもそもテレビ業界、特に制作現場には、定時という概念が存在しない。

 

原因は幾つかあるが、一因としてテレビ番組は365日、24時間放送され続けている。

 

例えば朝の情報番組であれば出社は前日の夜だ。

 

仕込みに追われていれば、さらに前日から泊まり込みで作業にあたることもある。

 

そして朝の放送を終え、事後処理の終わった昼間に退社となる。

 

夜の報道番組でも仕組みはほとんど変わらず、単純に時間が半日ずれる程度の範囲だ。

 

さらに一例として、二時間の特別番組の放送が決定すると、番組によっては半年前から動き出すこともある。

 

その間、企画会議や、リサーチ、演者の選定、スタジオ収録など、たった一度、二時間の為に相当な労力が必要とされる。

 

そして放送のひと月前には、週に一度自宅に戻れればいいほう、といったような状況になることも珍しくはない。

 

悲しいかな、そうしなければ、追いつかないのだ。

 

説明も省きたくなるほど、テレビの制作現場は複雑かつ、煩雑にできている。

 

そんな事情から、定時はおろか、残業などに対する認識が著しく低いのだ。

 

番組によって忙しさはまちまちだが、恐らく最も過酷な現場はバラエティ番組だろう。

 

たった3分のVTRのために海外に飛ぶこともいとわず、とにかく「面白さ」を追求する。

 

しいて比較するならば、バラエティの制作現場において月の労働時間が400時間を超えることはざらにある。

 

定時勤務の年収1500万円を蹴って、そんな現場に自ら足を突っ込もうとするトラジを止めようとするのはごく自然の対応だ。

 

先の理由から、現場は慢性的に人手不足である。

 

トラジのような人員の受け入れを断る理由がなかった。

 

杉内の忠告も空しく四月、トラジはTCTの看板バラエティ番組の制作現場に配属された。

 

世は、お笑い不況の時代に向かおうとしていた。

 

その数年後、トラジは国貞と出会う。

 

そして、お笑い芸人として生きることを決意する。

 

 

 ***

 

 

「それで、夢の大都会、東京の生活はどうだ」


 旧友の永井が皮肉交じりに尋ねてきた。

 

自動車教習所という設定の新ネタで挑んだ、笑撃王決定戦から一週間が経っていた。

 

結果は三位入賞、地下の大会で三位の人間が、地上で一位になれるわけはないと、国貞は穏やかでなかった

 

国貞はメビウスの6ミリに火を付けながら、面倒くさそうに答える。


「毎日が刺激的だよ」


「刺激的ねぇ」


座椅子にだらしなく背をもたれて、灰皿を手繰り寄せた。


「それはもう刺激的。ちょっと街を歩くだけで老若男女問わずナンパしてくる」


「でこう言うんだろ。あなたは神を信じますか、って。あとついでに言っとくが、俺んちは当然禁煙だ」


冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら、永井はリビングテーブルに腰かけた。


「残念ながら、ご名答。声をかけてくるほぼ全員が宗教がらみで、外に出るのも嫌になる。あとついでに言っとくが、俺んちは当然喫煙可、だ」


構わず国貞は、新築の天井に煙を吹きかけた。


オリンピックからたった数年で大不況に陥ったこの状況を、マスコミは「オリンピックショック」と呼んだ。


そして現実に、新興宗教は爆発的に増えていた。


都合のいい神の存在する宗教は、仕事、家族、信頼を失った者にとっての掛け替えのない心の拠り所なんだろう。


「だから俺は決まってこう答えるんだ。はい、信じていますって。そうしたら相手はぱっと目を輝かせるんだ」


「勧誘の大チャンスだ」


「そして俺は続ける。人の心には神がいます。私の心にも、あなたの心にも。すると相手はよく分かっています、とばかりに、うなずく」


永井はお手本とばかりに笑みを浮かべてうなずいて見せた。


「で、逆に問うんだ。あなたは僕を信じますか?ってね」


「ほう」


「僕の心の中には神がいます。だから僕は僕を信じている。てはあなたは、僕を信じますか」


「俺はお前を信じているぞ」


いたって真剣、といったような顔だが、それが偽りであることくらい、付き合いの長い国貞には分かった。

 

永井に構わず、国貞は続ける。


「相手は決まって、困ったような顔になる。だから間髪入れずに畳みかける。僕のことを信じれないということは、神を信じないことと同義ですよね。僕の前から去ってください、神の御言です、ってね」


「なるほどな」


永井は感心したふうに缶ビールを傾けた。


「趣味が悪い」

 

「こんなところにいれば趣味も悪くなる」

 

煙草を揉み消しながら自嘲する国貞を待って、そんなことより、と永井は続けた。


「冗談抜きで、お前ほんとこれからどうすんの」


「どうもこうもないよ。俺は芸人として生きていくだけだよ」


「考え直せって。今の世の中知ってるだろ」


「こんな時代だから、やる価値があるんだろ」


「お前、中学の先輩だった津崎さんって覚えてるか」


「もちろん。よく世話になった」


「お前と同じだよ、高校中退して、芸人になるって東京に飛び出した」


「それも知っている。だけど東京で顔を合わせたことはない」


「テレビでも見ない。地下芸人の国貞も顔を合わせていない。つまり、少なくとも芸人として成功していないってことだ」


「そうとは限らないだろ。地下は広いんだ」


「空も広いぞ」


「雨がうざいぞ」


「早く出てこい地中人」


「好きで潜ってるわけじゃない。で津崎さんがどうした」


「津崎さんが亡くなった」


「なに」


「お前のいる東京でだ。渋谷のハチ公像にすがりつくようにして、発見されたんだと」


「なんで」


「相当酒に酔ってたみたいで、窒息死だっていうから、ゲロでも喉に詰まらせたんじゃないか」


「やるせないな。…それでも芸人で成功していなかった理由にはならないだろ」


「葬儀に、津崎さんの相方だったって人が来ていた。芸人ではどうしようもなく売れてなくて、津崎さんもああいう人だったから、ろくに働きもせず、劇場の日当でその日暮らし、借金して酒飲みまくって、気付いたときにはもう首が回らないようになっていたらしい」


「酷いな」


「そんで最後は窒息死だろ。お前、そうなりたいのか」

 

「俺なら餅を喉に詰まらせて正月に死ぬ」

 

「趣味が悪い」


「それで、その相方って人、連絡先聞いたか」


「なに」


「津崎さんの相方の連絡先は聞いたかっての。名前は」


「いや、聞いてない」


「何故。名前も聞いていないのは何故」


「聞いてどうすんだよ。まぁとにかく、考え直せよ」


「何故。俺が考え直さないといけないのは何故」


「なんだそれ東京で流行ってんの」


「大ブームだ」


「東京も落ちたな。じゃあまたな」


「失礼だぞ」


永井がゴーグルのボタンを押すと、国貞の視界からその姿が消えた。


国貞もゴーグルを外し、新築のリビングルームからワンルームの安アパートへと回帰する。


VRの発達と共に、ARも目まぐるしく進化し、一般にも普及していた。


ARゴーグルをかけることで、互いの空間に任意に、自分の姿を投影させることができる。


永井は地元である広島に腰を据え、二年前に職場で出会った女性と結婚した。


念願の我が子を授かったことを機に、つい先月に一戸建てを購入していた。


それにしても、と国貞は思う。


津崎さんが死んだ。

 

東京に出てきているとは聞いていたが、そんな状態だったとは知らなかった。

 

増加する自殺者数を鑑みると、酔った男の死など、世間には興味の対象にすらならない。

 

思い通りにいかないことがほとんどだ。

 

それでも足掻こうとすればするほど、津崎さんのように自ら沼にはまっていく。

 

だとすれば、俺も既にその沼に、片足を突っ込んでいるのか、と国貞は思う。

 

「いつか這い上がってみせる」

 

津崎さんもそう言っていたのだろうか。

 

能ある鷹は爪を隠す、らしい。

 

機は来るはずだ。

 

その日まで、せいぜい刃を研いでおこう。

 

世間という、時代という、常識という名の壁を越える一羽の鷹。

 

果てなく伸びる放物線をイメージする。

 

そのまま消えてしまうだろう、そう永井は言ってきそうだな。

 

それでもいい。

 

どの道いつかは骨になるんだ。

 

それでもいいさ。