東京 closing down

現実とフィクションと音楽。始まりのエンドロール。 Photo by shun nishimu

彩り 7/31 11:04

 

「お電話ありがとうございます。ーー狛江店、国貞が承ります。」

 

「あのねぇ、お寿司をお願いしたいんだけど」


 

女性、60代、定年退職した無愛想な旦那と悠々自適の老後生活。


 

「6人前ほど、いいかしら」


 

5年前に結婚した息子夫婦は横浜のマンションに暮らしている。

2ヶ月に一度、孫を連れて狛江の市営アパートに顔を見せに来る。



今日がその日だった。

 

仕事のない毎日の楽しみといえば、週に一度の歌謡教室と、会うたびに成長する孫の姿を見ること。

 

お寿司が大好きな4歳の孫、出前でも取ろうかしら。





土曜日の午前11時、自宅から自転車で十分程の場所に位置する宅配寿司屋に出勤していた。

 

 

シャリを並べて、

たまに海苔で巻いたり、

切り身をのせたり。

 

何でもない仕事だ。

 

自分じゃなくても代わりは務まる、色のない仕事。

 

 

そしてたった今かかってきた、注文の電話に対応していた。


 

「はい、かしこまりました。恐れ入りますがお電話番号からお伺いしてもよろしいでしょうか。」

 

「あ、はいはい。03-****-****ね。」

 

 

常連様であることはこれまでの会話から察していた。


電話機の横に設けられた受注用の端末に番号を打ち込む。


以前にも注文したことがあれば、お客様情報として名前、住所が自動的に反映されるのだ。


 

「ゴトウ様、いつもご注文ありがとうございます。」


 

「はあい。それでね、お寿司をお願いしたいんだけどいいかしら」





癖、ではないが、電話を受ける際に意識することがある。

 

 

声の主、お客様が注文に至った背景、人となり、生活様式まで、イメージするのだ。


 

例えば、声から成人男性と判断する場合。

 

こちらの問い掛けに対し、

 

「ちょっと待って下さいね」

 

と、背後にいる誰かに確認をとれば、それは大半が奥さんであり、ほとんど家族だろうと仮定する。

 

注文が四人前、更にお子様用のセットを頼まれれば確定だ。

 

 

そこまでは想像するに容易い。

 

その先に何をイメージするかがこのゲームの楽しみ方だ。

 

 

 

月に一度は寿司を食べる習慣があるのか。

 

息子がゴネて、仕方なくの注文か。

 

回転寿司屋では巨人戦のナイターが見れないからと、父親の都合か。


家族の構成、年齢や顔、息子か娘か、息子は友達と何をして遊ぶか、父親の会社では何をやっているか。

 

 

 

とにかく注文を受ける三分の間に、できる限りの想像力を働かせる。

 

 

人間の武器は、想像力だ。


 

偶々今日は、孫の為にお寿司を頼む耳順の女性だった。




 

「ワサビをお付けしても宜しいでしょうか?」


 

ここはチェックポイントだ。

もちろん店としては、ワサビの苦手なお客様の為にマニュアルとして伺うことを義務づけているのだが、今回の場合、俺は別の捉え方をしていた。

 

まず、お子様がいるなら基本的に“ワサビ抜き”、または桶の横に添える“ワサビ別盛り”のどちらかを選択される場合が多い。

 

例によってゴトウ様も、

 

「あ、ワサビね。お寿司には付けずに、別でもらえるかしら?」

 

と別盛りを選択した。

 

ここで孫来たる説が真実味を帯びてくる。


 


ただ、この想像ゲームの面白いところは、答え合わせが出来ないところだ。


そこが醍醐味であり、肝でもある。



 

 

 

いつも思うことがある。

 

 

人の考えている事なんて、所詮他人に分かる筈がないと、思う。

 

 

あるアーティストの台詞を借りれば、

 

言わなければ何も伝わんねーぞ

 

なのだ。

 

思っているだけじゃ、考えているだけじゃ、その意見は世の中にとって“無いもの”に等しいからだ。

 

 

 

松屋でよく、中年が店を出る際、「ごちそうさま」と言い「ありがとうございました」と店員が返す光景を見る。

 

おれは何となく、いいな、と思う。

 

お金を払うから牛丼が出されて当然、たしかにそれはそうであるのだが、

それ以上に、提供者に”美味しかった、ありがとう”の意である「ごちそうさま」を伝えることが、消費者としての在るべき形であると、思う。

 

店内のほとんどは男性の一人客、大して賑わっているわけでもなく皆が黙々と箸をすすめる中、

「ごちそうさま」の一言を発するのは決して低い敷居ではないと感じる。

 

松屋では食事後「ごちそうさま」を言わなければならない。

松屋の店員はそれに対し「ありがとうございました」を返さなければならない。

 

 

そんなルールはもちろんない。

 

だからこそ、おっさんの行為が好印象に映るし、人の繋がりに希望を感じれる。

 

それでもたまに、「ごちそうさま」が受け取られることなく、ただの独り言、に化してしまうことがある。

 

 

そんな時、代わりに「ありがとうございました!」と叫びたい衝動に駆られる。

 

不憫に思えて仕方がないし、せっかくのごちそうさまを無かった事にされるのが、たまらなく悔しかった。



伝わらなければ、世間的には言ってないことと同義なのだ。





 

他人の胸中はわからないが、それを知ろうとする行為に意義があると思う。

 

足腰の悪そうなおばあさんを見て、「つらそうだな」と想像し、席を譲る行為が、思いやりじゃないか。


 

押し付けはもちろん良くない。

俺は良い事をした、あの人は助かっただろう、と悦に浸るのは、自己を満たしているだけのエゴイズムに大差ない。



 

下北沢駅のホームでいつも見かける、「実力派占い師によるお悩み相談」の広告に苛立ちを感じる。

 

悩みがないわけではない。

 

ただ、実力派かなんだか知らないが、あんたらなんかに俺のことを理解されてたまるかって、そう思う。

人の心中や、これまで人生、果ては未来なんて、他人に安々と想像できるほど、単純でわかりやすい訳がない。

 

 

あなたの人生は○○ですね、なんて、んなわけねーだろ、と思う。

 

 

そうであってたまるかと、思う。






矛盾になるが、だからこそ俺はお客様を想像し、だからこそ、答え合わせは出来なくていい。

 

 

言わなければ伝わらないなら、言わなければいいじゃないか。

 

 

なんて、いやらしい言い訳をしてみたり。

 

 

人間の武器は、想像力と、いやらしさだ。







シャリを並べて、

たまに海苔で巻いたり、

切り身をのせたり。


何でもない仕事だ。

 

自分じゃなくても代わりは務まる、色のない仕事。




でも、こんな単純作業が回り回って、

 

まだ出会ったこともない、誰かの笑い声を作れるなら、

 

何処の誰かもわからない人の、笑い顔を作ってゆくのなら、

 

モノクロの毎日に少しだけ、色が灯る気がする。




 

「お孫さん、喜んでくれるといいですね。」

 

 

 

顔も知らないゴトウ様に、胸の中で語りかける。

 

 

いつも無愛想なおじいさんが、顔をほころばせる姿をイメージして。

 

 

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