東京 closing down

現実とフィクションと音楽。始まりのエンドロール。 Photo by shun nishimu

4.Girl meets NUMBER GIRL 9/24 1:05

 

「莉奈ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる太い腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

後退した額を手で叩き、ぜい肉を蓄えた腹を揺らしながら客は笑った。

グラスに浮いた水滴をおしぼりで拭き取り、客がキープしているお気に入りの焼酎で水割りを作る。

傾けたボトルには私の手書きのタグが掛けられていた。

“すざわっち”

バカじゃないのかって、思う。

この須沢という男にも家庭はある。

高校生の娘と、大学生の息子がいるんだと、いつかの来店時に自慢気に教えてくれた。

こんな男が父親だなんて、二人の子と奥さんを思うと不憫で仕方がない。

 

「久し振りにすざわっちの歌聞きたいな」

 

「じゃあ今日は歌っちゃおうか」

 

東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

例によって今夜も、店内には“すざわっち”の他に、サラリーマンの四人組、何をやっているのかわからない男二人と、常連の年寄りが一人だけだった。

 

「失礼致します。」

 

声の方にちらりと目をやると、自動扉を開けたアルバイトのボーイである栄治が水割り用の水と氷を運んできたところだった。

 

VIPルームと銘打たれたこの個室は、来店の少なさも相まって、皮肉にもこの客の為に使われることになった。

他のテーブル席とは異なり、自動扉と軽い防音構造になった壁に囲まれた一角に四人掛けのソファーがL字に置かれ、絨毯が敷かれた床は足音もせず、天井にはこの町に相応しくないシャンデリアがきらきらと輝いていた。

 

テーブルに新しい氷と水を置いた栄治は、空いたトレンチを脇に挟むと片膝をついた。

 

「三番をお願い。」

 

「かしこまりました。」

 

その姿勢のままきっちりと頭を下げ、溶けかけた氷とカラになった水のボトルをトレンチに乗せて栄治は部屋を去った。

 

三番、とはウーロン茶のことだ。

この店ではキャストがドリンクを頼む際、番号による隠語が取り決められていた。

お酒に強いキャストなら客のキープボトルを一緒に飲んだり、例えば五番のビールなどを頼む。

一方私のように多く飲めない場合は、今のようにウーロンハイと偽ったウーロン茶を飲むことでその場をしのいでいた。

幸い、店内の照明の関係で顔の赤さなどは気にならないので、客がそれを飲んだりしない限りはバレることはなかった。

 

「哀れなあの子 涙に濡れて」

 

“すざわっち”は分厚い瞼を閉じて、若い頃から好きだという浜田省吾を熱っぽく歌っていた。

私はもちろんこの曲を知りもしないが、こういったバラードであれば、客の手を握りながら曲に合わせて揺れておけばいいと、先輩の楓さんが教えてくれた。

 

やけに長い曲に揺れることすら面倒になった私は、大きな肩に頭を預けた。

何を勘違いしたのか、握る手に力を込めた“すざわっち”の歌唱は更に熱を帯びだした。

 

馬鹿じゃないのかって思う。

話をしてウーロン茶を飲んで、たまに揺れるだけでお金が貰えるならこんなにいい話はなかった。

 

大学の友達や両親は、危ないよ、だとか、自分を大切にしないと、だとか、そんなことばかり口を揃える。

ちゃんとしたバイトをしろって、これのどこが“ちゃんとしてない”バイトだって言うのか。

需要と供給を伴って経済活動と呼ぶのなら、この仕事ほど分かり易く体現しているものはない。

女と喋りたい男と、金が欲しい女。

逆もまた然りだ。

 

すざわっちは相変わらず大きなお腹を揺すって歌っていた。

こうして誰かの手を握ると、あの日を思い出すことがある。

あの部屋、光景、臭い、記憶が断片的に、喉に挟まった小骨のように、忘れかけた頃にちくちくと煩わしい。

 

初体験は大学一年生の夏休み、サークルの先輩が相手だった。

 

私は彼に好意を寄せていたし、彼も同じ思いを抱いているのだと思っていた。

 

地方から進学の為に上京してきた私は調布市のアパートに部屋を借りており、 大学までは京王線で一本の位置だった。

 

その日、 サークルの飲み会のあと、特に仲の良かった五人で飲み直そうと私の部屋に移動した。

 

私はブランケットを膝に掛け壁にもたれて、隣に座っていた先輩と隠れて手を握っていた。

 

冷房で肌寒いのに、緊張と高揚で手のひらは汗ばんで、お酒のせいなのか喉元まで心音が弾んでいた。

 

そして皆が眠ったあと、常夜灯の照らすワンルームの端で、手を握ったまま先輩とキスをした。

 

長いキスは初めてだったし、 周りに皆がいることを思うとバレてしまうのではないかと気が気でなかった。

 

翌朝になると皆はバイトや予定などのため部屋を出て行った。

 

お酒の空き缶や食べかけのおつまみの残る部屋で昨晩のことを思い返していると、玄関のドアがノックされた。

 

先輩は携帯の充電器を忘れたと一人戻ってきた。

 

ちょっと待っててくださいと部屋の内に戻ると、いきなり後ろから抱き締められた。

 

突然の挙動に驚く間もないまま、半ば押し倒される形でベッドに倒れ込んだ。

 

空き缶が音を立てて床に転がる。

 

やめてくださいと口に出しながらも、どこか期待があったのだろう、 Tシャツを下着ごとたくし上げられ胸が露わになっても、それほどの抵抗はしなかった。

 

彼の息づかいは荒く、貪るように身体を舐められる最中も、優しさは感じなかった。

 

彼が私の腹上で果てた後、汗と血と体液の染みたシーツを脱衣場の洗濯機に放った。

 

その時の感情はよく覚えていない。

 

初めて異性と結ばれた充足感か、大事なものを棄ててしまった喪失感か。

 

部屋に戻ると先輩は既に着替えを済まし、バイトがあるからとそそくさと部屋から出ていった。

 

その瞬間、幾つかのことを悟った。

 

恐らく今後、先輩との関わりは殆ど無くなるだろうし、先輩に対する好意も殆ど冷めてしまうだろうし、これから先、男の人を愛せないかもしれない。

 

不快な粘着感が肌にまとわりつく冷房の切れたワンルームの端で、昨晩手を重ねたブランケットにくるまった。

 

馬鹿みたい。

 

アルコールとさきイカと男女の抜け殻、それらが混ざった臭いが、未だに鼻腔にこびり付いて私に問い掛ける。

 

大事にする、“自分”って何だろう。

 

「莉奈ちゃん、また来るね。」

 

「うん、また明日ね。」

 

「明日はどうかなあ。」

 

額を手で叩きお腹を揺すって笑う“すざわっち”がタクシーに乗り込むのを見届けると、エレベーターで三階にある店内へ戻った。

バックルームで化粧を直し、店舗裏にある非常階段でバージニア・エスに火をつけた。

煙草を吸い始めたのはストレスや自暴自棄ではなくただ、なんとなく。

 

身の回りのことが“どうでもいい”とは昔から感じていたけど、決して否定的な意味ではなかった。 

最初から皆と同じ様な順風満帆な人生を歩めるとも考えていなかったので、大学に入学したことさえ我ながら驚く行動だった。

 

他人と同じ道が嫌なのではなくて、 嫌なことを避けていたら他人と違う道を進んでいた。

人生なんて人の数だけあるのに、マイノリティだけを否定するのっておかしいし、可笑しい。

世間の評価なんて私にとって関係ないし、“どうでもいい”のだけど。

 

「莉奈、ちょっといいかな。」

 

振り向けば、非常階段へのドアから栄治が覗いていた。

 

「だから、仕事中はタメ口やめてって。それと、あんまり話し掛けないでって言ってるでしょ」

 

それには特に返さず後ろ手で音を立てずドアを閉めた栄治は、 一本貰ってもいいかなと人差し指を立てて笑った。

私は大げさにため息をついて仕方なくといった仕草でバージニア・エスを渡した。

 

「でも、こんなの女子が吸うものだよ。」

 

「吸えれば何だっていいんだ。」

 

栄治は一口吸い込むと顔をしかめ、続けざまに更に一口吸い、階段に置かれた客用の灰皿の上でとんとんと灰を落とした。

 

「あの須沢って男、完全にハマってるね。莉菜も指名料が弾むんじゃない」

 

「どうだっていいんだけどね。私と話して何が楽しいんだか。若い女だったら誰だっていいんじゃないの。」

 

「莉菜と話をするのは楽しいよ。」

 

口元に優しい笑みを浮かべる栄治に動揺を悟られぬよう、すぐに返した。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

店の方から来店を知らせるベルが聞こえた。

 

「ごめん、今日上がった後少し話せないかな。第二公園で待ってるから。」

 

栄治は慌てて煙草をもみ消すと、返事も聞かずに店の中に消えた。

 

ただでさえ馬鹿な男と話をして疲れているし、早く帰って化粧を落としたいし、それに公園だなんてありえない。

 

でも、話ってなんだろう。

 

妙な期待をしていることに気が付き、呆れたように頭を振った。

 

あの日の自分が階段の上に座り、馬鹿みたい、と私を見下ろしている。

 

期待には二種類あると思う。

一つは、応えるもの。

自分が他人(ひと)の為に応えたり、誰かが応えてくれたり。

もう一つは、裏切るもの。

裏切ることもあれば、裏切られることもある。

 

私の人生において期待の定義とは、圧倒的に後者だ。

裏切られるのは、期待をするからだ。

期待しなければ、裏切られることはない。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

一人呟くとドアを開けて店内へ戻った。

 

「莉菜ちゃんは何カップなの」

 

「何カップに見えますか」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を両手で受け止めると、優しく膝の上に戻した。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、がははと笑う大学生風の男。

 

「高崎お前何してんねん」

 

その隣に座っていた年嵩の男が“高崎”の頭を叩いた。

 

「だって気になるじゃないですか、荻原さんは莉菜ちゃんが何カップかわかるんですか。」

 

「どうだろうなあ」

 

そう言いながら伸ばされる腕を受け止め、膝の上に戻す。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

額を叩き、“高崎”と“荻原さん”は一緒にがははと笑った。

 

このテーブルについたのは私と19歳の柚(ゆず)だった。

“高崎”は柚にすがるようにして話しかけた。

 

「柚ちゃん、俺の悩み聞いてよ、昨日バイト前にね」

 

“高崎”が話し出そうとすると“荻原さん”がすかさず制した。

 

「だから、お前の悩みなんて興味ないねん。それにお前、さっきの店でなんか決めたって言ってなかったか。」

 

悩み、私の悩みってなんだろう。

出てこないってことは、何も悩んでないってことなのかな。

それはそれで、良いことかもしれないし、それもそれで、良くないことにも思える。

 

「えーなんですか気になるなー」

 

 柚は感情のない台詞を感情を込めて読み上げた。

 

「でも俺、荻原さんみたいに、一人で抱えて一人で解決できるほど強くないんすよ。」

 

泣きそうな表情で高崎が訴えた。

 

一人で抱えて一人で解決する。

私にとってそれは当然のことだったけど、もし、相談できる人が周りにいれば、もっと楽に生きれるのかな。

 

「例えばな、喧嘩が強い奴ってのは、殴られた痛みを知ってんねん。その痛みを知らん奴が、最近ニュースでも見るけど相手を死なせてしまったりしてんやろな。数こなしてる奴は“あ、これ以上やったら死んでまうな”とか加減がわかんねん。」

 

荻原さんが煙草を咥えたので、すかさずライターで火を付けた。

すまんなと片手を上げ、続けた。

 

それと同じでな、人生でもどん底見てきた奴はやっぱ強いねんな。

落ちるのは簡単やけど上がるのは難しいってよう言うやろ。

逆に、底まで落ちるのも簡単なことやないからな。

どん底経験して、それでも這い上がってきた奴って、やっぱ強いねん。

上も下も見ずに平々凡々の人生歩んでる奴のほうが、弱いこともあったりすんねん。

だから、例え今悩みがあるんやとしても、それは将来的に見たらチャンスやろ。

どうせ落ちるなら、今の内にどん底見といたらええねん。

 

荻原さんは視線こそ高崎に向けているが、その言葉を私に向けているように感じたのは、きっと気のせいだろう。

 

「ま、人生なんて結果論やからな。いつがピークやとか、振り返ってみんとわからんけどな。」

 

荻原さんが吸う煙草の先が、オレンジに光る。

煙をゆっくり吐き出しながら水割りを指でかき混ぜ、グラスを口に運んだ。

 

「つまるところ、今をがむしゃらにやるしかないんやろな。その地点を底とみるか天井と捉えるかも自分次第だったら、他人よりもまず、自分で評価してやることが大切やと思うけどな。」

 

なんとなく、栄治の笑顔が頭に浮かんだ。

 

莉奈と話をするのは楽しいよ。

 

公園に行ってみようかなって思ったのは、なんとなくただ、なんとなく。

 

「高崎、お前はどうや。」

 

「なんかいい話に紛れて論点をずらされてるような気がしますけど、胸が痛いっす。」

 

胸に手をあてながら倒れこむ高崎を、柚が優しく受け止める。

 

「もう一つ教えといたるわ。いい人ほど早死にするらしいで。せやからお前は」

 

「即死ですね」

 

がははと二人は笑い、その笑い声に来店からずっと眠っていた連れの客が目を覚ました。

 

それに気が付いた高崎が声を掛けた。

 

「ところで拓朗は、莉菜ちゃんは何カップだと思う」

 

「どうだろうなあ」

 

と眠たそうに腕が伸ばされる。

 

「お触りはダメですよ。」

 

「参ったなあ」

 

三人はがははと叩き合いながら笑った。

 

ほんと、 馬鹿じゃないの。

 

私も一緒に、笑った。

 

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