東京 closing down

現実とフィクションと音楽。始まりのエンドロール。 Photo by shun nishimu

5.The SEA 9/24 1:01



 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

 

「安定安定って世間ではよく言いますけど、アンテイってどういう字を書くか知っていますか。」

 

目の前にいる世間もよく理解していない“幸せ”な学生を眺める。

羨ましく、恨めしく、いたわしい。

 

「安く定められている、と書いて安定と読むんですよ。そんな事にも気が付かず、安定だと騒ぐのは正直、馬鹿ですよ。」

 

よく言うよ。

本当に馬鹿なのは自分だ。

あのメッセージさえ無視していれば。

悔やんでも悔やみきれない程には、もう手遅れだった。

 

交友も講義も惰性でこなすようになった大学三年の時分、賢二さんからSNSを通じてダイレクトメッセージが届いた。

他大学生からの突然のメッセージに驚きつつも、こんな出会いもあるのかと浮かれていた自分の愚かさを憎む。

 

連絡をとる気になったのは、同じ漫画が好きだとわかったからだ。

確かに万人受けする内容では無いが、独特の世界観に引き込まれるその作風は、友人の間でも自分くらいしか好んで読む人間はいなかった。

共通の趣味があることで意気投合し、心を許すまでもそう時間はかからなかった。

 

何通かメッセージを交換した後、賢二さんとカフェで会う約束をした。

そして、おいしい話があると聞いたとき、自分だけに教えてくれたのだと嬉しくなった。

 

安定っていうのは、どういう字を書くか知ってるか。

安く定められているって書くんだ。

そんな世界に喜んで飛び込んでいくなんて、馬鹿のすることだ。

 

騙されているなんて、疑いもしなかった。

 

 

「収入を水、仕事を用水路だとしますね。あなたの住む家に、川から水をひく用水路を作ります。」

 

持参したペンでノートに一本の川を描き、少し離れたところに家を描く。

そして川と家を一本の線で繋いだ。

 

「この線が用水路、収入を得る為の定職です。これが太いと多くの水、つまり収入を多く得ることができ、細いと得られる水も少なくなる。世間では、これが太い事を安定と呼びます。」

 

目の前の学生は顎をこすりながら、なるほどと言ったように頷いた。

 

「でも、その安定だという仕事だって途絶えてしまえば収入はゼロになる。」

 

用水路に、斜線を引く。

 

「これのどこが安定ですか。会社が潰れたり、クビになったり、自分は大丈夫だという保証はどこにもありません。」

 

用水路の絶たれた家の隣に、もう一つ家を描く。

 

「真の安定と言うのは、一本絶たれても他に三本四本、収入源がある姿のことです。」

 

新しく描いた家に、川から四本の線を繋げ、その内の一本に斜線を引く。

そして残った三本を繰り返しなぞり、強調する。

 

「この用水路、つまり収入源を増やすお手伝いを、僕たちはしています。」

 

ペンを置き、とうの昔に冷めきったカフェラテで喉を潤す。

 

「時代は変わります。一つの定職だけで安心する時代は終わろうとしています。そうなったとき人々はどうするか。それはここに書いたように、副収入を求めます。でも気付いたときには遅いでしょうね。周りには失業者ばかりだ。」

 

先程から学生は唸ったり、感心したように頷いている。

こんな学生ばかりで、日本の未来が本当に心配になる。

 

一年前の自分が、目の前の学生に重なる。

そんな話あるわけないと、目の前からさっさと姿を消してくれと願いながら、愚かだった自分の影を前に、あの日の賢治さんになりきる。

 

いいか、経済はバブルで一度底を打った。

そこから今、徐々にではあるがまた上昇傾向にある。

でもな、それも長く続かないことは誰の目から見ても明らかなんだよ。

あの漫画が好きな栄治は悪いやつじゃないってわかる、だから栄治には特別に教えといてやるけどな。

 

そう言いながらにやりと笑う賢二さんに、俺は幸運だと噛み締めたのを覚えている。

 

「僕も来年就職しますが、もちろんそこだけで収入を得るわけではありません。これからの社会で少しでも幸せな人が増えればいいと思って、趣味も同じで、僕と同じ就活を控えた学生だったこともあって声を掛けました。」

 

彼とは二週間前にTwitterで知り合ったばかりだ。

知り合った、とは言ってもこちらが一方的にメッセージを送っただけだった。

わざわざ街で声を掛けなくても、友達の友達、その先までSNSを利用すれば簡単に連絡をとることが出来るのは、便利でありやはり脅威でもある。

自分がそうであったように、同じ学生相手ならば気を許し易いこともターゲットの条件となる。

ターゲットの過去の投稿を簡単に見返し、興味のありそうな分野を探る。

 

賢二さんもきっとそうしたのだろう。

本当はあの漫画だって興味も無いのに。

 

今回の学生の場合は映画だった。

例えば「自分もあの映画好きなので親近感湧きました」といったようにコンタクトをとれば、三人に一人は返信してくる。

そこから何とか二人で会う口実を繕い、今日のようにゆっくり話のできる場所に呼び出し、落としにかかる。

知らない人について行ったらだめ、とはよく言ったもので、子が大学生になっても親は釘を刺すべきだ。

 

おいしい話、とはつまり、こういう仕組みだった。

ショッピングモールで売れ残った商品は、アウトレットモール等で価格を下げて売られる。

そこでも売れ残った商品を、“本部”では買い取っていた。

詳しくは知らないが、賢二さんの話によれば只でさえ値下げしても売れない商品だから、買値としては破格らしい。

 

会員になれば、その本部が所有する商品を自由に扱うことが出来る。

もちろん自分で使用することも可能だが、それをオークションで転売する事で、利益を上げるのだ。

 

入会金として15万円が設定されていた。

ただ、オークションをしていれば15万なんてあっと言う間に稼ぐことができると賢二さんは話した。

バイトも辞めて、就活に専念出来る上、収入も得ることができるからこんなにいい話は無いと、学生に釣り合わない高価な装飾品を身に着けた賢二さんの言葉には説得力があった。

 

そうはいっても、最初の壁として学生にとって15万円は大金で、簡単に用意出来るものではない。

どうしても難しい場合、本部から入会金を借りることが出来る。

やはり何割か増しての返済になるが、例によってオークションをしていればそれも大した問題ではないと、その言葉を信じた。

冷静になれば、そんな上手い話なんてある訳が無いことは火を見るより明らかだったのだが、当時の自分は賢二さんのようになりたいと、直ぐに入会を決めた。

 

確かに商品の在庫は多かった。

賢二さんの助言の通り、何度も出品してみたはいいものの、所詮は売れ残りなだけあって、まともな値段はつかなかった。

もちろん15万円なんて到底稼ぐことは出来ず、非情な金利の借金は日に日に膨らんでいく一方だった。

 

いよいよ首の回らなくなったとき、賢二さんから“紹介制度”を教わった。

簡単な仕組みで、自分の紹介により誰かが入会すれば、そのバックとして三万円貰えるといったものだった。

所謂、マルチ商法の類だった。

勧誘を重ね、ピラミッド状に組織が形成されていく。

実情は、上層部のみが潤い、下層部には殆ど恩恵が無いと、しばしば社会的に悪徳商法と問題視されてきたが、実はルールさえ守っていれば法的に全く問題がない。

 

からくりに気付いたとき、賢二さんは話してくれた。

 

「俺も最初はまんまとやられたよ。とてもじゃないがあんな商品さばいて15万なんて稼げる訳がなかった。そこでの紹介制度だよ。おいしい話があると最初言ったが、あれもあながち嘘でもない。口の巧い奴にとってみれば、確かにこんなにいい話はない。もちろん最初は罪悪感があったが、こっちもそれどころじゃないからな。まあそのお陰で、直ぐに返済してやったよ。」

 

 

帰り際、学生は他意のない笑顔を浮かべ「今日はありがとうございました。」と礼を述べた。

 

「こちらこそありがとうございました。また連絡しますね、高崎さん。」

 

このまま返事なんてしてくれなくていい。

 

stability ― 安定。

物事が落ち着いていて、激しい変動がないこと。

この現状もこれはこれで、確かにそうだと、自嘲した。

 

自分が底へ歩いているのがわかる。

上を目指していたはずの道はいつの間にか下り坂に変わっていて、止まるには遠くまで歩きすぎた。

振り返ったとき、一本だったはずの道が枝分かれしていたことに気が付く。

あの時こうしていれば、その繰り返しで、それでも歩き続けるしかなかった。

 

いつか見た、ダイバーの映像を思い出す。

頭部にカメラとライトをつけた彼は海底を歩いている。

暗闇を僅かに照らすライトによって、徐々に深くなっていくことが映像ではっきり確認出来るが、彼は歩みを止めず進む。

そのダイバーが何故危険と知りながら深い海底へ歩き続けたのか、それは誰にもわからない。

そして映像はフェードアウトし、英語の字幕は彼が絶命したことを伝えた。

 

ただただ、深く、黒い海底へ歩き続ける。

毎晩の就寝前、暗闇の中で、自分があのダイバーのように海底を歩き、自分がその映像を見ているような錯覚を覚える。

一方で引き返せないと焦る自分、一方ではそれを他人事のように俯瞰している自分。

消し去ることの出来ない映像に瞼をきつく閉じ、睡魔が深い眠りに導いてくれる瞬間を待ち続ける。

 

いっそ海の中に沈んで、上を見る砂になりたい。

この捌け口を失った感情が溜まって、部屋を満たして、海になればいい。

青い青い、海になればいい。

 

莉奈と話がしたいと思ったのは、なんとなくだった。

悩みを打ち明けたい訳じゃないけど、なんとなく、声が聞きたかった。

今日の仕事終わり、誘ってみようかな。

そんなことを考えながら、調布駅前のカフェを出た。


東京の端の拙いキャバクラは、土曜日の夜だと言っても繁盛するとは限らない。

自分と違いまっとうに人生を歩んできたのであろう男性客を横目に、ただお酒を運んだ。

 

常連の男が帰ったあと、非常階段で似合わない煙草を吸う莉奈に話かけた。

 

「馬鹿じゃないの。」

 

莉奈の口癖だ。

彼女は客の前でも、同僚の前でも、僕の前でも素顔を表さない。

いつもどこか遠くを見ていて、確かにそこにいるんだけど、存在自体がフィクションじみていて、この世界の住人じゃないように思えるときがある。

足を踏み外した自分でも、彼女なら受け入れてくれるんじゃないかって思うことがある。

きっと打ち明けたとしても、馬鹿じゃないのと、笑ってくれるんじゃないかって、そう思う。

 

このまま今日は閉店かなと思っていた矢先、三人組の男が来店した。

席に案内して飲み物を尋ねた際にぎょっとした。

年嵩の男に、席に着くなり眠りかけている男に、もう一人は昼間の学生、高崎だった。

彼はそうとう酔っていて、幸いにもこちらに気がついていないようだった。

顔を合わさないように、そそくさとバックルームに戻った。

 

途中、ちらりと席を覗けば高崎が莉奈の胸に手を伸ばしかけていたところだった。

それを莉奈が優しく制し、がははと笑っていた。

俺は莉奈ともっと仲が良いんだぞと叫び出したかったが、ぐっと堪えた。

少し羨ましく感じたのは、気のせいだ。

 

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