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東京 closing down

青年の日常や苦悩と歯痒いまでのリアリティに落とし込まれる楽曲の数々に、全編エンドロールな新進気鋭の問題作 Photo by shun nishimu

蘇生(2/2) 8/11 19:28

 

 

突然の土砂降りを全身で浴びながら、”ショーシャンクの空に”を思い返していた。

 

約20年かけて独房の壁を掘り進め嵐の夜ついに脱獄に成功し、身に纏うものを脱ぎ捨て雨の降りしきる天を仰いだアンディに自身を重ねる。

 

黒い傘を広げた背広の中年が、奇妙なものでも眺めるように目の前を通り過ぎる。

 

勘弁してくれ。

 

会社で傘を盗まれるのは三度目だ。

 

一度目は入社して半月の頃、朝から雨が降っていた肌寒い日だった。

 

オフィスの入り口に設けられた社員用の傘立てに収めたのが9時50分、さて昼飯でも食べようかと傘立てを覗いた14時の時点で傘は既に消えていた。

 

二度目はその一月後。

 

会社の雰囲気を徐々に掴み、冷静になって周りを見渡してみれば大半の社員は自分のデスクに傘を立てかけていることに気が付いた。

 

なるほど確かに、あれほど多くの傘が乱立した場所では自分のビニール傘を見分けることは難しいかもしれないと、今度は自分のデスクに置くことにした。

 

午後には雨が上がったこともあり、置き傘として一本置いておこうと持参した傘は自分のデスクに置いたまま、その日は退社した。

 

その翌日ぽつりぽつりと雨が降っていたが、会社に傘を置いていたこと、お金が乏しかったことから傘を持たず早足で出社した。

 

デスクには、在るはずの置き傘が失くなっていた。

 

途端に叫びだしそうになったが、なるほど外回りの営業さんが借りていかれたのだなと、アルバイトでありながらお役に立てる喜びを感じることで何とか抑えた。

 

その傘を返しに来る営業さんは未だに現れない。

 

 

そして今日、三度目の正直だ。

 

奴らは確実に俺の傘をパチっている。

 

なぜ俺が、松屋を目前にした信号待ちでびしょ濡れにならなければならないのだ。

 

百歩譲って、一度目のように大勢が使う傘立ての中から”間違えて”持って行ってしまったというのなら、同情の余地はある。

 

俺もコンビニで購入したビニール傘を使っているから、似たような傘はその中に何本でもあり、故意でなくても理解できないことはない。

 

しかし、翻って、今回俺は”自分の”デスクに置いていた。

 

誤って国貞くんの席に近づき、誤って国貞くんの傘を持って行ってしまった、何て話があるだろうか。

 

否、奴らは確実に国貞くんの傘をパチっている。

 

無罪でありながら何年も刑務所の中で静かに耐え続けたアンディを思い、妙に長く感じる赤信号を眺めながらアンガーマネジメントに努める。

 

 

“ネギたま牛めし”の食券を購入し、入り口近くのカウンター席に向かった。

 

松屋はいい。

 

一人の濡れた青年も、一人のお客さんとして扱ってくれる。

 

食券を店員に手渡し、しっとりと濡れた頭を掻きながら丸い椅子に腰を下ろした。

 

その瞬間、尻部辺りから亀裂音が聞こえた。

 

何が起きたのかはすぐに想像がつき、独房内でのアンディを真似るように天井を仰ぎ、ため息を付いた。

 

 

勤める会社へはエレベーターを八階で降りる。

 

エレベーターホールの左手側にはトイレと給湯室、右手側には来客用のエントランスがある。

 

エントランスを右に抜け、ビルの壁に沿うように左に折れる廊下を進んだその突き当りにオフィスへのドアがある。

 

ドアはオートロックとなっており、社員証も兼ねているIDカードをかざすことでロックが解除される。

 

部外者の立ち入りを禁止する目的であろうそのセキュリティーは、入社当時こそ”会社っぽくて何かいい”と浮かれていたが、

オフィスへ入る場合のみならず、オフィスから出る際にもIDカードをかざさなければ解錠されないため、数週間もすると煩わしさしか感じなくなった。

 

勤務中その社員証は首からぶら下げており、昼休憩のように外出する際にはズボンの後ろポケットにしまっていた。

 

 

さて、と少し腰を浮かせ後手で取り出した社員証は、縦にひび割れチップのようなものが顔を覗かせていた。

 

これで反応しなくなればオフィスへ入ることができなくなる。

 

もっとも、他の社員が扉を開けた同じタイミングでならば出入りは可能なのだが、誰とも被らなければ面倒だ。

 

鍵の掛かったドアの前で誰か通りがかるのを待っている雨で濡れた青年。

 

まったくかわいそうだ。

 

俺はかわいそうになりたくないし、同情されたくもない。

 

無為に濡れた髪の毛をかき上げ、勘弁してくれ、と周りに聞こえぬよう呟いた。

 

 

松屋を出れば雨は小降りになっており、セブンイレブンのホットコーヒーを飲みながら狭い喫煙所で食後の一服を嗜んだ。

 

エレベーターを八階で降りる。

 

がらんどうのエントランスとそこから伸びる廊下には人の気配が全く無く、まるで生体実験の研究施設を彷彿させるような気味の悪い清潔感と、相容れない無人の空気感に絶望を煽られた。

 

やはり、と言うべきか、こんな時に限って人の出入りが極端に少ない。

 

無人の廊下をとぼとぼと歩きながら角を左に折れた時、オフィス内から二人の女性社員が談笑しながら出てくるところだった。

 

心臓の鼓音にはやる足元を落ち着かせ、なるべく平然を装うように「お疲れ様です。」と交わし、二人組が通り過ぎたところで、駆け出した。

 

全ての動きがスローモーションに映る。

 

突然の挙動に振り向く女性社員、風を受ける濡れた髪、閉まろうとする扉。

 

あと一歩。

 

無情にも鉄の板は、目の前でカチャリと音を立ててしっかりと施錠された。

 

勘弁してくれ。

 

固く閉ざされたドアを前に、冤罪によって投獄されたアンディに思いを馳せる。

 

「良かったら開けましょうか?」

 

先ほどの女性社員がくすくすと笑いながら、IDカードを差し出してきた。

 

笑いたければ笑うがいい。

 

だが、「本当にありがとうございます。」

 

 

とりあえず助かったと自分のデスクに戻れば、傘を盗まれた怒りが再びこみ上げてきた。

 

198/200。

 

あの女性社員は、俺の傘を盗んでいない。

 

 

帰り道、相変わらず降り続く雨に根負けし、コンビニで傘を購入した。

 

どんよりとした天候に心まで晴れない。

 

傘を差す人々と窮屈にすれ違いながら、何だか自分だけが特別不幸に思えてくる。

 

No rain.No rainbow.

 

ふと、いつか聞いた言葉を思い出す。

 

証拠不十分ながら終身刑を言い渡され、劣悪な環境のショーシャンク刑務所に投獄されたアンディは、刑務所の中でどのようして希望を見出したのか。

 

何を思い、二十年間壁を掘り進めたのか。

 

この雨がやんだとき、果たして虹は架かるのか。

 

五十年間服役した老囚人ブルックスは仮釈放の際、あまりにも長すぎた刑務所での生活から、外の世界に馴染めず自ら首を吊って命を絶った。

 

brooks was here.

 

命を絶つ間際、彼はロープをくくり付けた梁(はり)にそう刻んだ。

 

希望とは何か。

 

傘をぶつけながら人混みに揉まれつつ、頭の中では感情が渦巻いていた。

 

希望とは、何かを信じることじゃないか。

 

現実に虹が架かるかどうかじゃなく、いつかこの雨が降り止み、いつか虹が架かると信じること、それが希望じゃないか。

 

時にそれは他人であったり、物であったり、自分であったりする。

 

信じることが出来ず殺めた過去の自分を、ブルックスのように首を吊ったいつかの自分を、蘇生させる。

 

信じることが、自分を生かせる希望となる。

 

 


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スクランブル交差点の信号待ち、雨水が靴に染み込み、つま先に冷たさを感じる。

 

きっと、生まれ変わっていける。

 

消し去れない過去がページを汚していたとしても、描き続けたい未来があるなら、きっと。

 

 

信号が変わり大衆が歩き出してもまだ、一人動けずにいた。

 

何度でも、生まれ変わっていける。

 

そしていつか捨てた、夢の続きを。

 

brooks was here.

 

やりかけの未来があるなら、きっと。

 

ロープの垂れ下がった心の梁に、書き足す。

 

 

and born again.

 

 

点滅する青信号にふと我に返り、駆け出した。

 

 

何度でも、生まれ変わっていける。

 

 

そしていつか見た、夢の続きを。

 

 

19:28

 

ー 東京編

overture(1/2) 8/4 23:20




狛江駅の改札を南口に抜ければ、人がまばらに行き交う商店街に出た。


商店街、とは言っても特段賑わうこともなく、特に平日である今日は老舗とおぼしき立ち飲み屋で会社帰りのサラリーマンがハイボールを飲んでいるだけだった。




その立ち飲み屋の二軒隣りには松屋があり、さらにその横に地下へと続く階段がある。



ひっそりと点灯する”Studio&Bar”の看板を横目に、イヤホンを外しながら薄暗い階段を下る。




いつ以来だろうかと、防音の重い扉をゆっくりと開けた。





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例によって朝から宅配寿司屋に出勤していたいつかの土曜日。




午前の注文が落ち着き、その日同じく出勤していた一つ歳下の蒼夏(そうか)と同じタイミングで一時間の昼休憩に入った。




店舗の中で商品を作る俺とは逆に蒼夏はデリバリー担当であったから、外は暑そうだね、ほんと暑いです焼けますよ、と会話をしながら簡単な賄いを作った。




店舗の裏口から外に出ると正面に比較的大きな公園があり、植えられた木々が裏路地に作る日陰で涼みながら、並んで賄いを食べていた。





蒼夏はギターを趣味にしており、以前からお互いにバンド経験者という認識があったので、必然的に会話の大半は音楽の話になった。





「国貞さんは今バンドやってないんですか。」





冷えた酢飯を頬張りながら蒼夏が尋ね、苦笑しながら返す。





「こっちに知り合いが居ないからね。」





もっとも現代では、インターネット上にメンバー募集の掲示板は山のようにあり”やろうと思えばやれる”のだ。


しかし連日のアルバイトと週二日の講座を考えれば、これ以上のタスクはなるべく避けたいと感じていた。





「それもそうですね。じゃあ良かったら今度、スタジオ入りませんか。」





久しぶりに耳にする誘い文句に、くすぐったいような懐かしさを覚える。



そこまで仲の深まっていない知人と「今度飲み行こうよ」と交わすように、バンドマンの間で交わされる「今度スタジオ入ろうよ」は親しみを込めた常套句だった。





「夜なら時間あるから、都合のいい日誘ってよ。」




二つ返事で決定するがその”今度”がなかなか訪れない幻の飲み会よろしく、実際に行くかどうかはともかく、少なくとも知人友人として「好意的に思っています」のサインとして受け取ることが礼儀だ。




スタジオ入りもまたリアリティに欠けた予定として、脳の片隅に静かにインプットした。







ところが先日、「来週の木曜、23時からスタジオ入りませんか?」と蒼夏からラインが届いた。



確かに「誘ってよ」とは言ったものの、現実に、更にここまで早くアポを取ってくるとは想定外だった。





“知り合いと趣味でバンドを組んでいるのだがドラムがいない、アジカンのコピーを数曲、簡単にでいいから来てくれないか”、という事情だった。




最も好んで聴くアーティストの一つだ。


来週の木曜までという時間的制約の中、関心のないバンドのコピーであれば考えどころだがアジカンとなれば話は別だった。



ここ数ヶ月ドラムに触れていないこと、元々ほとんど技量実力が無いことを、何度も念を押した上で、それでもいいと返事をもらった。




スタジオ入りは幻ではなくなった。






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広島ではよくスタジオに行くことがあった。


月に二度ほどの頻度で集まっていたバンドや、家が近所のギターの友人とは高校の頃からよく二人で音を合わせていた。



馴染みのある分厚い防音扉を開ければ、簡易な待合室に座っていた蒼夏が、お疲れ様です、と軽く頭を下げた。




おつかれ、と返しながら、蒼夏の隣に立つ二人の男性に目を向けた。




「国貞さんが入る少し前にお店を辞めたんですが、元スタッフの先輩です。」




蒼夏が二人を簡単に紹介した。




「あ、どうも。ギターボーカルの保田です。」




眼鏡をかけたTシャツ半パンの保田さん。




「今日はわざわざありがとうね。」




親しげに握手を求めたのがベースの清水さん。




「はじめまして、国貞と申します。」




てっきり蒼夏の友達が来るのかと思えば先輩方だったので、まるで仕上がっていないコピー曲に一層の不安が募った。





予定の23時になり各々ギターやエフェクターなどを背負って、押さえてあったBスタジオへ入った。



十畳程だろうか、正方形の部屋を見回した。



四方に置かれたスピーカー、正面の壁一面に貼られた鏡、ギター・ベースアンプ、そしてドラムセット。




久しぶりの空気に感じる高揚、先輩相手となれば下手はできない緊張感。





「あ、ほんとに、遊びだからさ。テキトウにやってくれたらいいから。」




持参のエフェクターをかちゃかちゃと踏みながら、心中を見透かしたように保田さんが笑いかける。




「申し訳ないです。なんとなく、誤魔化してやりますね。」



とクラッシュシンバルの角度を調整しながら言うと、




「俺の耳は騙されねーぞ。」




ベースを背負いながらアンプをいじる清水さんがにやにやと脅してくる。




「勘弁して下さい。」




「なんとなくで、大丈夫ですよ。」




そんなやりとりを聞いて、蒼夏が笑った。






左足を何度か踏み込み、ハイハットの噛み合わせを確かめる。



周りではマイクのリバーブや、俺にはよくわからないアンプのダイヤルを回したり音を調整し、各々がウォーミングアップをしていた。




本当にいつぶりだろうと、簡単なフレーズを叩いてみる。




元から大したことのない腕も、やはりそれなりに鈍っていた。



これはやばいかもしれないと要所のフレーズを確認していると、




「そろそろ、いこうか」




とマイク越しの保田さんの声に、底を這うようなベースの低音が姿を消した。






刹那の静寂が、スタジオ内を走り抜ける。






保田さんが目で合図を送る。





蒼夏がそれを受け取り、イントロのギターが無音の耳鳴りを追い越していった。




左足でリズムを取りながら右足をつま先から踏み込むと、清水さんのベースラインと重なるバスドラムがテンポを作ってゆく。




1オクターブ低く入るサビを、尖った気怠そうな声で保田さんが歌う。





視界の隅で、ギターの蒼夏が跳ぶのを捉えた。





その着地と同時にクラッシュシンバルを鳴らす。





金属の響きに頭の芯が痺れ、攻撃的にかき鳴らされるリフに、自然と踏み込む足に力が入る。






スティックを振り上げ、真っ直ぐにスネアドラムに落とす。



先端はスネアの中心、胴の部分は円の淵を捉える。






そう、これだ。






突き抜けるような快音に、目を閉じる。




頭の中の原曲、両耳に流れ込む歪んだメロディーに合わせ、スネアを鳴らした。





そう、この感覚。





歯痒さに煩悶する白昼を、

正夢にならない夢に歯軋りする夜を、

掴み所のない浮き雲で霞んだ日常を。





霧を晴らすように、何度もスティックを打ち付けた。








いつからだろう、新しい自分を求めたのは。

そしてそれを諦めたのは。




同級生と被らない進学先を望み、てきとうな理由をつけて選んだ高校。



小中学と続けていた野球も辞めて、軽音楽部も無いのにドラム教室に通った。




明確な目的も持たず、漠然と私立大学へ入学。




バイトして、たまのサークル活動、ドライブにカラオケ、飲み会。




何処にでもいるような、大学生。





野球もドラムも勉強も趣味も全て中途半端に思え、本気で取り組んだものも無く、ただカレンダーを捲る毎日。






自分の弱さ、甘さ、脆さ。






目を逸らすまいと、苦薬を舌でゆっくり溶かすように、今だけは受け入れる。






それが粉々に砕ければいいと、何度もスティックを振り上げた。









過去の自分を、殺すように。








繰り返し何度も、スティックを叩き付けた。





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彩り 7/31 11:04

 

「お電話ありがとうございます。ーー狛江店、国貞が承ります。」

 

「あのねぇ、お寿司をお願いしたいんだけど」


 

女性、60代、定年退職した無愛想な旦那と悠々自適の老後生活。


 

「6人前ほど、いいかしら」


 

5年前に結婚した息子夫婦は横浜のマンションに暮らしている。

2ヶ月に一度、孫を連れて狛江の市営アパートに顔を見せに来る。



今日がその日だった。

 

仕事のない毎日の楽しみといえば、週に一度の歌謡教室と、会うたびに成長する孫の姿を見ること。

 

お寿司が大好きな4歳の孫、出前でも取ろうかしら。





土曜日の午前11時、自宅から自転車で十分程の場所に位置する宅配寿司屋に出勤していた。

 

 

シャリを並べて、

たまに海苔で巻いたり、

切り身をのせたり。

 

何でもない仕事だ。

 

自分じゃなくても代わりは務まる、色のない仕事。

 

 

そしてたった今かかってきた、注文の電話に対応していた。


 

「はい、かしこまりました。恐れ入りますがお電話番号からお伺いしてもよろしいでしょうか。」

 

「あ、はいはい。03-****-****ね。」

 

 

常連様であることはこれまでの会話から察していた。


電話機の横に設けられた受注用の端末に番号を打ち込む。


以前にも注文したことがあれば、お客様情報として名前、住所が自動的に反映されるのだ。


 

「ゴトウ様、いつもご注文ありがとうございます。」


 

「はあい。それでね、お寿司をお願いしたいんだけどいいかしら」





癖、ではないが、電話を受ける際に意識することがある。

 

 

声の主、お客様が注文に至った背景、人となり、生活様式まで、イメージするのだ。


 

例えば、声から成人男性と判断する場合。

 

こちらの問い掛けに対し、

 

「ちょっと待って下さいね」

 

と、背後にいる誰かに確認をとれば、それは大半が奥さんであり、ほとんど家族だろうと仮定する。

 

注文が四人前、更にお子様用のセットを頼まれれば確定だ。

 

 

そこまでは想像するに容易い。

 

その先に何をイメージするかがこのゲームの楽しみ方だ。

 

 

 

月に一度は寿司を食べる習慣があるのか。

 

息子がゴネて、仕方なくの注文か。

 

回転寿司屋では巨人戦のナイターが見れないからと、父親の都合か。


家族の構成、年齢や顔、息子か娘か、息子は友達と何をして遊ぶか、父親の会社では何をやっているか。

 

 

 

とにかく注文を受ける三分の間に、できる限りの想像力を働かせる。

 

 

人間の武器は、想像力だ。


 

偶々今日は、孫の為にお寿司を頼む耳順の女性だった。




 

「ワサビをお付けしても宜しいでしょうか?」


 

ここはチェックポイントだ。

もちろん店としては、ワサビの苦手なお客様の為にマニュアルとして伺うことを義務づけているのだが、今回の場合、俺は別の捉え方をしていた。

 

まず、お子様がいるなら基本的に“ワサビ抜き”、または桶の横に添える“ワサビ別盛り”のどちらかを選択される場合が多い。

 

例によってゴトウ様も、

 

「あ、ワサビね。お寿司には付けずに、別でもらえるかしら?」

 

と別盛りを選択した。

 

ここで孫来たる説が真実味を帯びてくる。


 


ただ、この想像ゲームの面白いところは、答え合わせが出来ないところだ。


そこが醍醐味であり、肝でもある。



 

 

 

いつも思うことがある。

 

 

人の考えている事なんて、所詮他人に分かる筈がないと、思う。

 

 

あるアーティストの台詞を借りれば、

 

言わなければ何も伝わんねーぞ

 

なのだ。

 

思っているだけじゃ、考えているだけじゃ、その意見は世の中にとって“無いもの”に等しいからだ。

 

 

 

松屋でよく、中年が店を出る際、「ごちそうさま」と言い「ありがとうございました」と店員が返す光景を見る。

 

おれは何となく、いいな、と思う。

 

お金を払うから牛丼が出されて当然、たしかにそれはそうであるのだが、

それ以上に、提供者に”美味しかった、ありがとう”の意である「ごちそうさま」を伝えることが、消費者としての在るべき形であると、思う。

 

店内のほとんどは男性の一人客、大して賑わっているわけでもなく皆が黙々と箸をすすめる中、

「ごちそうさま」の一言を発するのは決して低い敷居ではないと感じる。

 

松屋では食事後「ごちそうさま」を言わなければならない。

松屋の店員はそれに対し「ありがとうございました」を返さなければならない。

 

 

そんなルールはもちろんない。

 

だからこそ、おっさんの行為が好印象に映るし、人の繋がりに希望を感じれる。

 

それでもたまに、「ごちそうさま」が受け取られることなく、ただの独り言、に化してしまうことがある。

 

 

そんな時、代わりに「ありがとうございました!」と叫びたい衝動に駆られる。

 

不憫に思えて仕方がないし、せっかくのごちそうさまを無かった事にされるのが、たまらなく悔しかった。



伝わらなければ、世間的には言ってないことと同義なのだ。





 

他人の胸中はわからないが、それを知ろうとする行為に意義があると思う。

 

足腰の悪そうなおばあさんを見て、「つらそうだな」と想像し、席を譲る行為が、思いやりじゃないか。


 

押し付けはもちろん良くない。

俺は良い事をした、あの人は助かっただろう、と悦に浸るのは、自己を満たしているだけのエゴイズムに大差ない。



 

下北沢駅のホームでいつも見かける、「実力派占い師によるお悩み相談」の広告に苛立ちを感じる。

 

悩みがないわけではない。

 

ただ、実力派かなんだか知らないが、あんたらなんかに俺のことを理解されてたまるかって、そう思う。

人の心中や、これまで人生、果ては未来なんて、他人に安々と想像できるほど、単純でわかりやすい訳がない。

 

 

あなたの人生は○○ですね、なんて、んなわけねーだろ、と思う。

 

 

そうであってたまるかと、思う。






矛盾になるが、だからこそ俺はお客様を想像し、だからこそ、答え合わせは出来なくていい。

 

 

言わなければ伝わらないなら、言わなければいいじゃないか。

 

 

なんて、いやらしい言い訳をしてみたり。

 

 

人間の武器は、想像力と、いやらしさだ。







シャリを並べて、

たまに海苔で巻いたり、

切り身をのせたり。


何でもない仕事だ。

 

自分じゃなくても代わりは務まる、色のない仕事。




でも、こんな単純作業が回り回って、

 

まだ出会ったこともない、誰かの笑い声を作れるなら、

 

何処の誰かもわからない人の、笑い顔を作ってゆくのなら、

 

モノクロの毎日に少しだけ、色が灯る気がする。




 

「お孫さん、喜んでくれるといいですね。」

 

 

 

顔も知らないゴトウ様に、胸の中で語りかける。

 

 

いつも無愛想なおじいさんが、顔をほころばせる姿をイメージして。

 

 

11:04

 

 

くるみ 7/24 23:12



ぷかぷかと浮かび、換気扇に吸われていく煙を目で追いながら、相変わらずの台所の壁にもたれるようにしゃがんで、煙草を吸っていた。

近くに置いたスマートフォンのスピーカーから、まるで胸の思いを代弁するように、歌声が聞こえてくる。



ねぇ、くるみ

この街の景色は、君の目にどう映るの

今の僕は、どう見えるの



その姿を探して居間を覗いても、電灯は抜け殻のような空間を照らすだけだった。

誰もいない時間のほうが多かったのに、たったの四日間を与えられ、奪われ、喪失感に喉を塞がれる。




そんな時はどうしたらいい?











「6日(ろくにち)にね、」と喋る彼女に


「むいかって言うんだよ」と苦笑しながら指摘すると、


「どっちでもいいじゃん」と少しふくれて見せる。



そんなやりとりを楽しみながら、


「それでね、」と続けるから、


「うん、うん。」と、左手をつなぎながら聞いてやる。






アパートに着くとポストを確認し、無造作に放られたチラシを取り出した。



「チラシお断りって、張り紙しとけばいいじゃん。」



「大事なチラシがあるかもしれないよ。」



少し錆びついた階段を登りながら後ろを振り返り、夜だから静かにねと人差し指を口元にあてると、少し笑いながら、わかった、と口の動きで伝えてきた。








これが一日目。

少しずつ、思い返す。









仕事が終わるとまっすぐに、小走りで、家に帰った。


「ただいま」


玄関のドアを開ければ、居間で寝転んで何やら紙に書き込んでいる彼女の姿があった。


「おかえりー」


手元を覗きこめば、ルーズリーフには繰り返し漢字が走り書きされていた。


「広島帰ったら漢字のテストがあるからさー」


コンビニで買ってきたのだろう、ピーチティーきのこの山をつつきながら、俺の帰りを待っていたらしい。


「お腹すいたなぁ。何食べたい?」


「たくちゃんの食べたいもの!」


彼女はいつも、そう答える。


俺はいつも、それに困る。









これが二日目。

火が消えてしまわないように、大切に煙草を吸い込む。










自宅から電車で一時間程、横浜市に位置する”みなとみらい”へ向かった。


道中、彼女のiPhoneを覗き込んではポケモンはいないかと一緒に探した。


数日前に配信された”ポケモンGO”はTwitterのライムラインを埋め尽くすほどの大盛況だった。

何となく気が進まず、彼女にダウンロードしてもらってみれば、確かに面白そうだと感じた。


このゲーム、歩かなければ進まないので、「今日はポケモンデートになるね」と笑いあった。




みなとみらい駅に到着すると、駅に隣接された商業施設を歩いた。


簡易なフードコート前の広場では、大道芸人がパントマイムを披露していた。

しばらく眺めて、観覧車に乗った。




前月彼女は誕生日だった。



遅れたけど、カバンに忍ばせておいたプレゼントを渡す。



こういう時、いつも困る。


サプライズや、ムード作りは大切なんだろうとは思うが、恥ずかしくてとてもできなかった。


観覧車でプレゼントなんて一層クサい。


「ちょっと目をつむって」なんて言っている自分を想像すると鳥肌が立つ。




結局、頂上でもない中途半端な位置で、目の前でガサゴソとカバンをあさり、「プレゼント」と渡したのだからサプライズもムードもなかったが、許してほしい。





その後は赤レンガ倉庫辺りを観光した。



夜は中華街でしきりに栗を渡そうとする中国人に辟易しながら、お腹いっぱいに中華料理を堪能した。









これが三日目。

灰皿の上でとんとんと灰を落とした。

煙草はもう、短くなっていた。








「たくちゃん起きて」

気がつけば14時だった。

本来なら12時に起きて、ポケモンを探しに行く手筈だったが、寝すぎてしまった。

「今日はゆっくりしよう」

そのままだらだらと音楽を聞きながら過ごし、夕方手前に近所にでかけた。


日曜ということもあり駅前では子供連れの夫婦や学生で賑わっていた。

皆一様にスマートフォンを手にしていることから、ポケモンGOをしていることは容易に想像できた。

マクドナルドで涼みながら、彼女のポケモン探しを見守った。



こんな時間が、ずっと続けばいいなと思った。

大したことはしなくていい。

こんな、どこにでもあるような普遍的な時間を、大切にしたいと思った。





彼女の重たい荷物を持って、一日目とは逆の道を辿った。

混みあうホームで、はぐれてしまわぬよう手を引いて電車を乗り換え、品川駅に向かった。



時間がとまればいいと思った。


何らかの影響で、新幹線が動かなくなればいいと思った。


それでも時間は平等にたゆまず、19:57、のぞみは発車した。











今晩は何食べようか。


「たくちゃんの食べたいもの!」


言うと思った。



駅前の松屋に入り、”牛めし並”の食券を購入する。



「また牛丼だ」

「紅しょうが食べ過ぎだよ」



また怒られるかな。



松屋を出て、セブンイレブンに入る。


「アイス食べる!たくちゃんは?」


メロンのアイスバーを一つと、ついでに煙草も買っておく。


「いいようちが出すよ!」



そう言っていつも財布を取り出すのが遅いんだ。


お金を支払い、店を出る。



ぽつぽつと街頭の照らす道を歩く。



「ろくにちにね」



うん、うん。


夜風で溶けたアイスが右手を伝う。


左手が握るのは、煙草だけが入ったビニール袋。





ポストからチラシを取り出す。


階段を上がりながら後ろを振り向いても、いたずらっぽく笑う彼女はいない。




玄関のドアを開けても、寝転んで漢字テストの勉強をする彼女の姿はなかった。





かばんを放り、つけっぱなしの換気扇の下で煙草に火をつける。




ねぇ、くるみ

時間が何もかも洗い連れ去ってくれれば

生きることは、実に容易い





別れ際、駅のホームで泣き言を言う彼女を慰めた。

またすぐ会える。






換気扇の音だけが虚しく響く部屋の隅で、感情が喉からせり上がる感覚に驚いた。



一番こたえてるのは俺じゃないかと、煙を吐き出しながら、自嘲する。



よく耳にする、”こんなに辛いなら出会わなければよかった”、の言い回しを思い出す。


以前は「結果論じゃないか」と否定的に捉えていた。


でも、今なら少し、理解することが出来る。


どうせ一人になるなら、この四日間だって無かったほうが良かった。


心の何処かでそんな声が聞こえる。

違う、とすぐに反論する。



重たそうなカバンを持った彼女を品川駅で出迎え、

楽しそうに友達のことを話す横顔を眺めながら電車に揺られ、

この町に彼女がいることに嬉しい違和感を感じながらアパートに帰り、

「いってきます」と言えば、「いってらっしゃい」と見送ってくれて、

仕事で疲れて帰って「ただいま」と言えば「おかえり」と笑ってくれて、

みなとみらいで観覧車に乗って、ポケモン探しに赤レンガ倉庫辺りを歩きまわって、

中華街でお腹いっぱいになって、

満腹と歩き疲れでヘトヘトになって電車に揺られて、

それでもポケモンを探すためにわざと一駅手前で降車して歩いて帰って、


おれがお風呂から上がれば携帯を握ったまま眠ってしまっていて、


今日はのんびりしようって、近所でポケモン探しをして、


電車に揺られ、新幹線口で彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送って。




こんなに楽しくて、こんなにあっという間で。


この4日間の、一分だって不要なものはない。





そうして歯車は回る。

引き返しちゃいけないよね。

君のいない、道の上。





べたついた右手と一緒に、顔を洗った。


何度も何度も、顔を洗った。



23:12 

擬態 7/15 14:01

 


渋谷にある某ビル8階にある広いオフィスの端、二十人弱のデスクが用意された島ではカタカタとキーボードのタッチ音だけが無機質に響いていた。

 

ブルーライト眼鏡を外し、目頭を押さえる。

 

姿勢を正すように背もたれに伸びれば、冷房が効き過ぎではないかと鳥肌のたった腕をこすり、カーディガンを羽織る女性社員を羨ましく眺めた。

 

 

所属する運用部署では、業務の9割9分をPC上で作業することもあって、必然的に会話の数も少なかった。

歴の長い先輩社員は、軽いジョークも交えながら周りに話しかけたり何でもない独り言を呟くことはあるが、アルバイトという最底辺の身分の俺から開口することは甚だ憚られる環境であった。

 

 

そんな肩身の狭い思いをしながら肩の凝る作業をしていると、俺の左隣りの先輩社員から声をかけられた。


 

「あとちょっと。あと数時間後にはthe HIATUSのライブだよ」


 

パソコンを見つめながら、高揚を抑えるように、キーボードを叩きながら先輩は言った。

 

the HIATUS(ハイエイタス)。

2008年のライブを最後に活動を休止したELLEGARDENのボーカルでもある、細美武士によるプロジェクトだ。

 

熱心とまでは言えないが、俺も好んで聞くアーティストであった。

多くの説明を省けばこのバンド、演奏、展開や構成が難解で、広くリスナーを捉えるようなキャッチーな曲が少ない。

客に媚びず、それでいて最高のアンサンブルで表現する彼らの音楽を俺は好きだった。

 

しかしやはり、友人知人の間ではなかなか共通で話の通じる人を見つけられず、Amazonのアルバムレビューを覗いては「そう、そこがいいんだ」、「それは違うだろ」、「確かにそうだ。」などと顔の見えないリスナーに共感を求めることが多かった。

 

ところが入社してすぐの頃、件(くだん)の先輩とお昼を一緒にさせていただいた際にお互いロックバンドが好きだということ、更にハイエイタスが好きだとわかり、意気投合した。

 

業務中、ランチ、喫煙所、先輩と顔を合わせばバンドの話をし、特に好きだというthe HIATUSの話では、例えばアルバムの発売日など俺の知らない情報を教えてくれた。

 

4月に行われた部署での親睦会の帰りに終電を失くしたときにも家に泊めていただき、夜通しライブDVDを観ることまであった。


 

そんなthe HIATUS、最近ではあまり動きがなかったのだが、先日二年半ぶりにフルアルバムが発売され、それに伴い全国ツアーも決定した。

 

アルバムの発売日、朝一番に先輩は「今日がきた。帰ったらCDを前に儀式だよ、儀式。」と拝む仕草をして見せ、日中落ち着かない様子で、相当好きなんだなと再確認した。

 

もちろんツアー初日のチケットも押さえており、ライブ数日前から「生で聞いたら泣いちゃうかもしれない」と漏らしていた。



 

そして今日、待望のライブ当日、先輩は開演に間に合わせるよう午後から有給を取っていた。

 

「あと数時間後にはライブかー」

 

予定では、もう数分すれば先輩は退社の時間となる。

 

「いいですねー」

 

俺は心から羨ましかった。

 

そういえば最近ではライブに行く機会がめっきり減った。

 

最後に行ったのは確か広島グリーンアリーナONE OK ROCKが来た時だった。


 

ただ、音楽もいいがせっかく東京にいるのだからお笑いのライブに行ってみたいと最近では感じている。

俺の部屋にはテレビが無いので、仕事から家に帰るとYouTubeで芸人のライブばかり見ていた。

 

そして、物思いに耽ることがあった。



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「最近ね、イライラする事が多いでしょ。」

 

「あー、そうなんだ。」

 

「だから僕ね、Twitterで呟きまくってるの。」

 

「平成かよ!

 今どきTwitterやってるのお前くらいしかいないだろ!」

 

ドッと客席から笑いが起きる。

 

 

20XX年。

 

もはやTwitterは終わったコンテンツとして見做されていた。

 

めざましテレビが実施したある小学校を対象とした調査によれば、『Twitterを知っているか』の質問に対し、その存在自体知らない、または昔話のよう認識している生徒が大半だったという。


 

「いや、ブライアンもいるよ」

 

「あの人まだやってるの!?」

 

「あとFacebookね」

 

「だから平成かよ!」

 

「投稿しても誰もいいね!してくれないんだよ」

 

「そりゃそうだろ。

 だからやってるのお前ぐらいだっての」


 

SNSというワードですら死語になりつつある時代だった。


 

「いやでもね、平成もよかったなって最近思うんですよ。」

 

「まあ確かにね。」

 

「2015年、ディズニーの、すごく流行ったよね。」

 

「あーそうそう。曲なんかもすごく流行ってね。」

 

ANAJALに乗ろう」

 

アナと雪の女王ね。

 そんな、みんな飛行機に乗ろうみたいなキャンペーン流行ってないから。」

 

「そうだっけ。」


 

時代が変わっても人々が笑いを求めることに変わりはなく、表現者は長い歴史を経て、ロボットには代替できない恒久的なポジションを確立したのだった。



 

「激おこプンプン丸!」

「もういいから!やめさせてもらうわ!」


 

拍手と共に、舞台袖に2人がはける。

 

客席では余韻を楽しむように人々の談笑が響いている。


 

「それでは只今より一番面白かった芸人を選抜する、投票タイムに移らせていただきます。」


 

投票とは言っても、手元のボタンを押し、各々が好みの芸人を選択することはない。

感情の起伏、瞬間の会場の笑いの量/質、その他審査の判断材料となる要素全てをモニタリングルームにて管理している。

どのタイミングで、どの芸人がその数値で優れていたか、総合的に判断し、最終的な順位が発表される。

 

このシステムは、芸人からの評判も良かった。

 

以前の投票システムであると、結局多く身内を呼んだ方が有利になり、フェアでないと不満が漏れることもあったのだ。

 

しかし先述の方法であれば確実な結果であるから文句は言えず、加えてネタのどの部分が良かった・悪かった等、精査の材料となるため多くの芸人から重宝されていた。


 

「公演は以上となります。

 本日は皆様、ご来場並びにご参加、誠にありがとうございました。」


 

再び拍手が起こると、客席のあちらこちらで人の姿がプツンと消え、まばらに座っていた客もそろそろと会場から去っていった。

 

 

会場に足を運ぶ時代は終わろうとしていた。

 

ここ数年では熱心な一部の層を除き、大半の客が自宅ないしはインターネットカフェのような場所から参加していた。

 

2018年の天皇陛下の生前退位によって平成が終わり、元号が変わったその数年後、情報技術は目まぐるしい発達を遂げた。

 

VRの応用によってゲーム業界に革命を起こしたトライブソリューションズと、韓国企業ヤクジンの共同開発により誕生した”DRVs2”は画期的なものだった。

離れた場所から任意の地点へ特定の人間を投影させるという、インタラクション技術の結晶だった。

 

そして瞬く間に世界中に普及し、ここ”ヨシモト∞ホール”でも早い段階から導入していた。

 

もちろん当初は反対の声も大きく、お笑いを含む劇場の伝統的な空気が侵されるとして、浅草に数百人の芸人が集まる大規模なデモ抗議にまで発展した。

しかし当時の吉本興業最高顧問、重松久人氏による、その年の流行語大賞まで受賞した「来たい人だけ来たらええやん。」発言で事態は急速に収束したのだった。



 

”常識”とは簡単にその姿を変えるものだ。

 

昨日までの普通は、明日からの異常なのだ。

 

その異常もまた、見慣れてしまえば手のひらを返したように常識へと変容する。

 

 

適応していく他ないのだ。

 

正義がどこにあろうとも、それが圧倒的なマイノリティーである限り、世間と同じ方向を向いていなければ「あいつは異常だ」と後ろ指を刺されてしまう。


 

 

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「いやー、マジ楽しみだよー。」


 

先輩は一応就業中であるから控えめに、しかし少年のようにわくわくを滲ませている。

 

只の貧乏揺すりであろう膝の揺れも、心なしか陽気なシャッフルビートを刻んでいるように映る。

 

 

「じゃあ、行ってくるわ!お疲れ!」

 

楽しんでください、と口から出かかったが、先輩に対し「楽しんで」と言うのはどうかと閉口した。

 

何となく上から目線な気もするし、言われなくても楽しむけど、と感じてしまうかもしれない。

失礼のないように、かつ気持よく送り出す言葉は何か、深く考える余裕もなく、結局口から出たのは、

 

「お楽しみに!」

 

と訳の分からない発言になってしまい、先輩も「ん?」と神妙な表情をしていた。

 

これではまるで俺が公演するかのような口ぶりだ。

 

先輩は足早にオフィスから姿を消した。



 

さて、と俺はパソコンに向き合い作業の続きを思いながら、考える。

 

 

正直言って、この作業にしてみても多少パソコンを扱えれば誰にでもできることだ。

 

自分でないといけない理由なんて、ほとんどない。

 

かと言って、好きなことだけしてお金を稼ぐことは、難しい。

 

自分にしかできないことをやらないと、焦っているのが自分でわかる。


 

自分らしさが消えてしまうことが怖い。


 

それを失くした時、果たして俺は俺であれるのか、不安になる。

 

外見や、服格好のことにそこまで重きは置いていない。

 

小学生、中学高校、大学と、自分を自分たらしめたアイデンティティが途切れることが怖い。

 

社会に生きる上で、適応し、同じ方向を向いていれば、不自然であることも、浮くこともないかもしれない、でも。


 

 

いつか東京タワーから下町を眺めた時に感じた、”必要でも不必要でもない、以下同文の存在”になってしまうことが怖い。

 

一匹狼を気取りたいわけではない。

 

先導者が声高に叫ぶ「我々は」に括られたくないだけだ。


 

 

もちろんこんなことを発言することもなく今日も、浮かないように、極力目立たぬように、必至に海面ぎりぎりを泳いでいる。

 

考えることを放棄してぷかぷか浮かぶこともなく、標的にされないように日の届かない深い海底を這うこともなく、たまに個性を覗かせながら、海面を泳いでいる。


 

いつか堂々と、臆さず高く飛んでいるその姿を、イメージして。

 

アスファルトを飛び跳ねる、トビウオに擬態して。

 

 

14:01

 

羊、吠える 7/1 14:28

 

何でもない平日の昼下がり、俺は”牛めし並”の食券を持って入口近くのカウンターに腰掛けた。

日本生まれではないであろう女性の店員は中途半端な量の水を無愛想に置き、

「ギュメシナミ」

と片言の呪文を厨房に向けてぶっきらぼうに伝える。

 

ちぎられた半券を眺めながら、三ヶ月前、入社した当時のことを思い返していた。


 

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今でこそ昼食には松屋で牛丼を食べているが、上京当初は本当にお金がなかった。

少しでも食費を浮かそうと、朝炊き上げた安くて粗いお米を握り、会社に持参し、昼休みにそれを食べた。

定食屋に通う社員さんもいれば、奥さんの作ったお弁当を食べる人、コンビニで済ませる人もいたが、自分で握ったオニギリを食べる人は見なかった。

 

だから俺はいつも、出来るだけ美味しそうにオニギリを頬張る。

まるでオニギリが大の好物かのように。

逆に、なんでみんなオニギリ食べないの?と、さもマジョリティーは自分にあるかのように。

 

当然、俺を羨む人間はいなかった。




俺は通勤の際に薄い生地のトートバッグを使っている。

鰹節と醤油をあえた具が入った簡素なオニギリは、肩掛けした背中にじんわり温もりを感じさせた。

母親や恋人の握ったものだったら少しは微笑ましく感じるであろうそれを冴えない青年がこさえた瞬間、

はやく冷めてくれませんか。

とスパルタ式にきつくあたってしまう。


電車会社は電車内において、周りの乗客の邪魔にならないようにとリュックの類を前に背負うように呼びかけている。

それに倣い、俺もバッグを前にかけていたが、一つだけ不都合があった。


オニギリのあるポジションが、必然的に股間の辺りに位置してしまうのだ。

当然、股間はオニギリの熱を感じ取ってしまう。

 

俺が温もりを感じる分にはまだいい。


しかしここは満員電車。

嫌でも他人と密着してしまう。


目の前に女性が立った場合はいつもヒヤヒヤする。


なんせ女性からしてみれば、生温かい柔らかいナニかを腰あたりに押し付けられることになるのだ。


恐怖以外の何者でもない。

おれはいつも「ちがうよ!ちがうよ!」と、何もやましいことはないと、どうか怖がらないでくれと、胸の中で念じる。


痴漢に間違われないようにといつも両腕を上にあげているが、もはや事態はもっと深刻で、痴漢では形容できない程の大罪を俺は犯しているのではないかと、イエスに懺悔する。


そうして人に揉まれ、オニギリは形を無くしていった。



 

満員電車にモラルはほとんどない。
 
 

一般企業の始業時間はだいたい9時か10時であるから、そこに人が集中するのは至極当然の事だった。

 

伴い、車両は11両編成、五分未満の間隔でダイヤも組まれている。

出来ることはやったと、電車会社の疲れた声が聞こえてくる。


それはスーパーでたまに見かける「袋詰め放題」でのおばさんの様を喚起させた。

もはや袋としての機能を果たしていないそれにまだ野菜を載せようとするかの如く、はちきれんばかりに電車には人が詰め込まれていく。

 

ある種のランナーズ・ハイだ。

既に満員の域を超した状態で電車は走る。

早く着いてくれと願いながらも、各駅停車はやはり、律儀に各駅で停車する。

 

到着時、誰も降りない場合は最悪だ。

 

只でさえ寿司詰め状態の車内だ。

しかし人にはそれぞれ都合があり、この電車に乗るしかないのだ。

 

駅に着きドアが開けば、恵方巻きのように様々な人が詰まっている。

ホームで電車を待っていた人間は、誰も降りないことを確認すると、まるで能面のような表情で、そうすることしかプログラムされていないロボットのように、背中から車内に侵入を試みる。

ドア間際に立っていた人はと言えば、やっぱ乗りますよねと、絶望を煽り、諦め、達観し、清々しい表情さえ浮かべて、流れに身を任せ押し込まれていく。

 

もちろん慣れていない人にとっては混乱の連続だ。

どの駅でどれだけの人の乗り降りがあるかも把握していないのだから、その状況に応じた行動が遅れてしまう。

 

例えば京王井の頭線においての”神泉(しんせん)”は顕著だ。

 

俺も毎朝降車する駅だが、渋谷駅の一つ手前に位置する神泉は、急行渋谷行きでは停車することがなく、各駅停車でないと降りることができない。

しかし一駅手前なだけあって、同じ渋谷出勤でも神泉で降りたほうが近い人も多くいる故、隠れた便利駅でもある。

上京間もない俺のような人間にしてみればそんな事情は知るはずもなく、”各停=人気ない”イメージがあるから面を食らってしまうのだった。

 

その日、相も変わらず満員の車内でおれは比較的ドア近くに陣取り、中年が読む少年ジャンプを後ろから一緒に読んでいた。

トリコを読み終わり、「〜でそうろう」と喋る師範が登場する連載に差し掛かったところで、アナウンスが神泉に到着することを告げた。

 

特に面白くはなかったがなんとなく続きが気になったまま、ふとドアの方に目をやれば、自分の母親くらいの年齢の女性が吊革を握れず揺れる車内でふらふらとしていた。

そのまま電車は駅に到着した。

 

停車し、やっと安定を取り戻した女性はドアが開くと、乗降客が通れるようにだろう、少し横にずれた。

「ここでは一度降りたほうがいいぞー」と胸の中で呼びかけるが、女性に届くことはなく、やはり想像通りの事態が起きた。

 

その女性の背中を、中年のサラリーマンが鬱陶しそうに、乱暴に押したのだった。

女性は驚く暇もなく押し出され、おっさんはせかせかと出て行った。



そんな光景に、周りの乗客がおっさんを批判的な目で見るのかと思えば、「よくやった!」と言わんばかりに我先にと車外へと急ぎ足で降りていった。



確かに、ああいった場合は一度降車し、降りる人を待つのが無難だった。


でももっとやり方はあるだろうと、あんなおっさんにはなりたくないと、そしてもしあの女性が自分の母親だったらと考えると、やり切れない悲しさを感じた。

 

広くなった出口を通りながら、少なからず俺自身もおっさんの恩恵を受けている思うと、悔しくなった。

 

 

 

東京の縮図だ。

 

入り込む隙間を必死に探し、俺のような人間は勇んで上京を決意する。

 

甘い水の入ったコップに、飛び込んでいく。

 

しかし既に砂糖は飽和していて、溶けきれないでプカプカ浮かんでいる内に、気がつけばそのまま溢れ出てしまう。

 

それでも、負けてたまるかと、

 

流されてたまるかと、

 

それでも俺は、揺れる足元を必死に踏ん張り、強く吊革を握り締める。

 

 



「国貞くんはオニギリが好きだねぇ」

 

と先輩社員に言われながら、平たい米をデスクで頬張っていた。


「好きで食べてる訳じゃないんですけどね」

と自嘲気味に返せば、

 

 

「これは数が少なくて貴重なんだ」


とパインのアメちゃんをくれた。



 

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「ギュメシデース」


目の前に牛めしと味噌汁が置かれる。

うまそうだ。と箸を取り、紅しょうがを多めに載せる。

まずは味噌汁を一口、喉を通る温かさが心地いい。


 

どんなに一生懸命、三角に握ろうとも、社会に揉まれ、角を削られ、次第に丸くなってしまう。


尖るのは子供、丸くなるのが大人だというなら、俺はオトナになりたくない。


いつまでも尖って生きてやると米を頬張りながら、俺はそんな柄じゃないだろと、とっくに気づいている。



狼の血筋じゃないから、いっそ羊の声で吠える。

 

馬鹿みたいと笑う君に、気付かぬ振りしながら。



14:28

NOT FOUND 6/30 8:42


煩わしいアラーム音に苛立ちを感じながら、重たい瞼をうっすら開ける。

時刻は8:30、目覚めるには理想的な時刻だと毎晩認識して眠りについているはずだが、数時間後にはそれを真っ向から否定する。

 

夢と現実との境界線が曖昧なまま枕元のスマートフォンを手に取り、昨晩のうちに溜まった通知を消化していく。

会話途中だった友人からの返信、開封だけして確認しないメールマガジン、アラームの作動履歴。

 

「タバコが美味いのは、食後と起き抜けだ」

 

いつか友人と話をしたことがある。

それを有言実行するように、多少時間が無い朝でも、俺は起きて一番に煙草を吸う。

駅のホームで電車を見送るたび、あの一本を我慢していれば、と後悔するのだが、走れば間に合う日もあるので辞められない。

 

煙草を吸いながら、台所に置いた安物の鏡で寝起きの間抜けな顔を確認する。
そろそろ髪を切らないとなあと、ぼんやり考える。

 

 

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3月に広島で切って以来だから、かれこれ3ヶ月以上生えっぱなしであった。

わざわざワックスを付けて頭髪を整えることが面倒くさく、広島ではいつもキャップをかぶって出かけていた。

 

一方アルバイトとは言ってもこちらでの勤務先はスーツの社員がその大半を占め、Tシャツを着て出勤することも憚られる環境であるから、もちろんキャップなんて被ることはできなかった。

 

仕方なく失礼のない程度に髪の毛を整えていたが、さすがにワックスだけでは収集がつかないと感じ始めた頃、土日だけ出勤している宅配寿司屋が気を利かせたように余裕のある出勤時間でシフトを組んでくれていたので、次の日曜、そのタイミングで切ることに決めた。

 

もちろん、散髪に五千円も払う気なんて俺にはない。

払えないことはない。これを言えば友人である美容師Fにはいつも怒られるのだが、ただ髪を切ることにその値段を出すのが嫌なのだ。

 

さらに言えば、俺は過去それこそカット4,5千円の美容室に通っていたが、美容師さんの文字通り腕をふるったオシャレなヘアースタイルも二三日も経てばいつもの見慣れた髪型に落ち着き、ワックスを付けることも敬遠し、楽だからとキャップばかりかぶっていたのだから費用対効果の面で言えば最悪だ。

 

そんな理由から去年辺りから千円カットを利用することが増えた。
増えた、とは言っても早くて2ヶ月に一回ペースで髪を切るからそれほどでもないのだが。

 

数日前、会社の先輩にそんな話をすると、

「まあアメちゃん食べな」

とアップルの飴玉をくれた。

先輩は事あるごとに俺にアメちゃんをくれる。

アメちゃん舐めれば何とかなりますかねと、俺はそれを受け取った。

 

そして会社を定時で退社すると、俺は某養成講座を受講するため表参道に向かった。

渋谷にある会社から歩いて三十分程度だ。

特に意味は無いが俺はいつも早歩きで、予定より早く到着することに達成感を感じていた。

 

その日も、だらだら交わる人混みをすり抜けながら、俺は早歩きで会場に向かっていた。

ちょうど青山通りに差し掛かったところで、”クラウザー”と名乗る美容師から声をかけられた。

 

俺は最初彼女の存在に気づかなかったのだが、こちらを覗き込みながら平行して歩く人影を視界の隅に認めたので、一瞬ぎょっとした。

どうやらこの女性は俺に話しかけているらしいと気づいたが、良からぬ勧誘の類だろうとイヤホンで耳を塞いだまま早歩きを続けた。

 

ところが数メートル歩いても彼女は何か喋りかけてくる。

これはただならぬ事態だと胸騒ぎを感じ、片耳だけイヤホンを外した。

 

 

「こんにちは」

 

 

俺は耳を疑った。

 

まさかこいつはこの数十メートル間、俺に「こんにちは」と語り続け歩いてきたのか?

これは想像以上にヤバイ部類の勧誘だ。

 

 

「私この通りの裏のほうで美容師をやってるクラウザーっていうんですけど」

と彼女は続けた。

 

俺は目を疑った。

 

さすがに本名がクラウザーでないことは俺にも理解できた。

しかしクラウザーの名が与えられるということは、それなりの所以もあるはずだった。

 

俺は記憶を辿った。

 

まさか、”餓狼伝説”シリーズに登場するヴォルフガング・クラウザーか?

確かヴォルフガングは身長2mを超えていたはず、違うか…しかし裏社会を牛耳る闇の帝王であるだけに、凄まじい戦闘能力を持つ。

その能力をかわれてクラウザーの名を?まさか…。

 

それとも、”バイオハザード”シリーズに登場するジャック・クラウザーか?

ジャック、数々の戦場で武勲を立ててきた優秀な兵士だ。

ナイフの達人。後に、より強くと力を求め、自ら寄生生物を取り込んだが死亡…。違うか…。

 

どちらにせよ、白兵戦の能力は計り知れない、こいつは強いと、胸騒ぎが確信に変わった。

正面から向き合っては駄目だ、歩みを止めることなく、右耳だけで声を受け取り、残りの全神経を周りに注ぎ、何か武器になるものはないかと脳内でシミュレートする。

 

「私の美容室では、特にくせ毛の方を専門的にやらせていただいていて、」

 

 

こいつッ!!??!!

 

恐るべき洞察力だ。

ほんの数十メートル平行して歩いただけで俺のくせ毛を言い当てただと?

なるほど、まずは相手を分析し、弱点なりを把握した上で仕掛けるタイプか、さすが数多の戦場を生き延びてきただけはある。

 

しかしそう俺もアマではない、この手の相手には慣れている。

 

「ちなみに普段お幾らくらいで切られてますか?」

 

 

ッ!?!?!?

 

こいつ…まさか俺が普段千円カットで散髪していることがわかるのか?

いや、これは陽動かもしれない。

ここで俺が狼狽した隙にナイフで一突き…、大した戦術だ。

 

しかし俺もそうアマではない。

 

「あー、4,5千円ですかねー」

 

何でもないことのように、早歩きをやめないまま俺は言った。

 

「そうなんですね~、ちなみにうちではカット6千円なんですけど」

 

なんッ!!だとッ!!!???!?!?

 

その質問から、少なくとも俺は

「うちは3千円です!安いでしょ!」

程度の返答を期待していたのにも関わらず、悠々たる口調でそれを越えてきた。

 

もしかすると俺の考えていた相場は東京では通用しないのかも知れない。

そもそも髪の毛を切っていただく対価が千円ポッキリなんて考え自体が間違っていたのかもしれない。

 

俺は急に恥ずかしくなり、

 

「ほ〜」

 

そう返事をするのがやっとだった。


するとクラウザーは歩きながら、俺の目から視線を逸らさないまま、ゆっくりと、右手をポケットに入れた。

 

 

それを見て俺も、何故かわからないが、視線を外さぬまま、ゆっくりと左手をポケットに入れた。

 

本当に何故かわからないが、防衛本能に似た、反射に近い感覚だった。

 

そしてほんの一瞬だが、相手の目にわずかな緊張が走ったのを俺は逃さなかった。

 

武藤遊戯なら、ここで起死回生のクリボーをドローし、滅びのバーストストリームを凌ぐはずだ。

 

もちろん左手が掴むのは、さっき会社の先輩がくれた、アメちゃんだ。

 

俺は焦りを悟られぬよう、ニヤニヤとポケットの中でアメちゃんをいじくり回した。

 

時間にして3秒ほどだが、永遠にも似た息苦しさを感じた。

 

クラウザーがゆっくりと右手を引き抜く。

 

 

引き出された手にはカードが握られていた。

彼女はカードに何やら書き込むとそれを俺に渡し、

 

「よかったら来てくださいね」

 

と息を乱しながら俺から離れていった。

 

気がつけば随分と遠くまで歩いていた。

彼女はおそらく新人だろう。

スタミナが足りてない。



渡されたカードには、下記のような記載があった。

 

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”クラウザー”とは彼女の呼ばれ名だろう。

そしてその横の”¥4000”とは恐らく、ご来店いただけますとこちらの値段で承ります、の意だ。

 

せこい俺は千円と言えばよかった、と少し後悔した。

 

そんなこと言おうものならカードには

”¥1000(笑)”

と書かれ、更にそれを持参して店を訪れようものなら店内プギャア必至だ。

 

舐めるな!と悔しさに身を任せその場を駆け出したが歩行者信号は赤に変わり、すぐに立ち止まることになった。

 

ビル間から覗く夕刻の空を仰いだ。

 

「今日もNOT FOUND、NOT FOUND」

 

イヤホンの中の声に重ねて、呟いた。


 

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気がつけば煙草はだらしなく灰をかかえ、台所には所在無げにゆらゆらと紫煙が漂っていた。

 

そろそろ準備をしないとまた乗り遅れてしまう。

 

ほとんど燃え尽きそうな煙草を惜しむように吸いこみ、フィルターの焼ける臭いに顔をしかめた。

 

一年後の俺はちゃんと散髪できているのだろうかと不味い煙を吐き出し、不安を打ち消すようにほとんどフィルターだけの煙草を丁寧にもみ消した。

 

8:42