咆哮とジョン・レノン 12/1 12:45
《一体何だというのだ》
プルースト現象とは、嗅覚や味覚から過去の記憶が呼び起こされる現象のことだ。
フランスの作家であるマルセル・プルーストの作品、“失われた時を求めて”の作中で、主人公がマドレーヌを口にしたとき幼少期の記憶が鮮明にフラッシュバックされた描写から、プルースト現象と呼ばれるようになった。
実家の石油ファンヒーターにあたるのは一年ぶりくらいだろうか。
特徴的な起動音のあとに、懐かしく暖かい匂いがリビングを這う。
そして、ふと小学校低学年くらいの記憶が蘇る。
印象的なものは2つある。
1つは、ギターを趣味としていた父親が集めていたCDやカセットテープで兄と遊んでいたときのこと。
お気に入りの遊びは、曲の録音されたカセットテープに、兄とおれが歌ったデタラメな歌を上書きすることだった。
例えば、DA PUMPの『if...』が録音されたテープがあり、
サビの歌詞、 『もしも君がひとりなら』
の部分を、 『もしもし亀よ亀さんよ』
と語呂ぴったりに吹き替えするのだ。
それを父親に聞かせて、二人で喜んでいた。
特に印象的なのは、ビートルズの名曲、Let It Beだった。
この曲はサビで、
let it be let it be
と繰り返すのだが、当時のおれたちには
ゲリピー ゲリピー
としか聞こえなかった。
もはやこれは何の曲なんだろう。
なんでこの人は、ゲリピーと歌っているんだろう。
狂気の沙汰としか思えない。
何、真面目な声で、いい感じのメロディーに乗せて、ゲリピーゲリピーと連呼しているんだ。
怖かった。
2つ目は、実家に唯一石油ファンヒーターが置かれていたリビングで、三つ歳の離れた兄と温風の取り合いをしていたときのこと。
小さな体で陣取り合戦をしながら生まれたのが、“お尻ゾーン”と呼ばれる奇怪な遊戯だった。
温風を譲るまいとおれが得意としていたのは、ヒーターの前にうつ伏せになることだった。
こうなればさすがの兄でも退かすことが難しくなる、おれは陣取りの勝ちを確信した。
すると兄は突然、「お尻ゾーン。」と発声したのだった。
それは、4人対戦のボードゲーム“バトルドーム”のCMを思い出させた。
男性の渋い声が言う「バトルドーム」のそれに酷似していたのだ。
「お尻ゾーン。」という聞き慣れない語感と、背筋を這うような不気味な響きは、勝ちを確信したはずのおれを不安にさせた。
兄は温風などどうでもいいと言わんばかりに、直立し、まっすぐ前を見つめたまま、「お尻ゾーン。」ともう一度言った。
おれは動くことができなかった。
一体何だというのだ。
お尻ゾーンとは何なのだ。
もはやヒーターの暖かさも忘れ、おれは冷えた死体を演じた。
そんなおれに構うことなく、兄の「お尻ゾーン。」は始まったのだった。
まず、うつ伏せで伸びたおれの足の裏に、兄は立った。
小学生の体重だったので痛みは感じず、おれはされるがままだった。
そのまま兄は、足に沿うように俺の上を歩き出した。
ふくらはぎ、膝の裏、兄はゆっくりと進行していた。
ふと気づいたが、兄はおれの部位を踏むたびに何か言っている。
兄が太ももに到達したとき、小さな声で「太ももゾーン。」と呟くのが聞こえた。
と言うことは、つまり最初に発したのは「足の裏ゾーン。」
次に「ふくらはぎゾーン。」
次に「膝の裏ゾーン。」
なるほど、と合点していると、恐るべき事実に気がついてしまった。
戦慄しながら恐る恐る首だけで振り返ると、兄はまっすぐ一点を見つめたまま、ゆっくりと歩みを進めていた。
そのまま進んでしまえば、どこにたどり着くかは目に見えていた。
そして、恐るべきは、ちょうど温風の出る場所が、お尻なのだ。
よせ、やめろ
しかし兄はおれのお尻の上に立つと、ゆっくりと口を開くのだった。
「 お尻ゾ ー ン。」
やられた。
兄は最初からこれを狙っていたのだ。
ところが兄はそのままお尻を通過した。
そして腰ゾーン、背中ゾーン、まで進んだのだった。
おいまさか、このまま“頭ゾーン。”まで来られるとヤバい。
再び首だけで振り返ると、兄はやはり一点を見つめたままゆっくり進んでいた。
「肩ゾーン。」
とうとう肩まで来やがった。
このままだとまずい。
そこでおれは、両ひじから上体を持ち上げて進行を止める作戦に出た。
兄はバランスを崩し、背中ゾーン、腰ゾーンまで後退した。
踏み込まれたおれは、ふぐぅと情けない声を漏らした。
とりあえず助かったと安堵もつかの間、兄は相変わらず一点を見つめたまま、くるりと方向転換した。
そしてそのまま小さく一歩を踏み出した。
やられた。
兄はエヴァンゲリオンの如く咆哮をあげた。
「 お 尻 ゾ ー ン 」
未だに、あの日の挙動が理解できない。
石油ファンヒーターの匂いを嗅ぐと、「お尻ゾーン。」が鮮明に蘇る。
あれは、何だったのだろう。
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