忘却と怠惰 1/27 5:00
やらないといけない事が無いわけじゃないけど、それはなんとなく、今じゃないと思えた。
かと言って、他にやることがあるわけでもない。
確かに今、少しでも空いた時間に済ましておけば後々楽になるタスクもある。
でもなんとなく、今じゃないと思えた。
布団に転がり、取り込まれた洗濯物の山を眺める。
洗濯するということは、着たということだ。
着たということは、畳まれたそれを広げたということだ。
どうせ着るなら、畳まなくても同じではないか。
これは、今することじゃない。
洗濯物の手前、積み上げられたCDにピントを合わせる。
部屋にいるときは、必ず何かしらの音楽を聴く。
その時の気分、買ったばかりのもの、単なるBGMとして。
CDを聴くということは、棚から出すということだ。
どうせ聴くなら、収めなくても同じではないか。
これも、今することじゃない。
積まれたCDから少し右に、しおりがはみ出た単行本がある。
仕事で必要になる情報収集の為に、読んでおかなければ。
でも、ページを捲っても、頭に入ってなければ意味がない。
今読んだとしても、それは文字の羅列を目で追うだけだ。
今、読むべきではない。
単行本から目線を上げ、天井を眺める。
そういえば、お腹がすいたな。
直近の食事から数時間が経っている、当然空腹も感じるはずだ。
でもどうせ明日になれば、朝飯なり昼飯なりを食べることになる。
そのとき満腹になるなら、今食べなくても同じだ。
眠気はない。
でもなんとなく、目を閉じた。
彼女との記念日に無頓着で、怒られたことがあった。
付き合い始めの頃は、意識せずとも気付いていた。
それでも何ヶ月かすれば、慣れなのか、その日が記念日だと自覚し辛くなった。
スマートフォンが知らせる無機質なアラームに助けられていた。
今日は、1月27日。
あいつが死んでから、二ヶ月が経つ。
恋人との記念日にしてもそうだ、毎月の○日に特別な意味はない。
一年単位での○月○日を迎えてこそ、記念日だと思う。
だから今日が二ヶ月目の27日だとしても、そこに意味はない。
でも、無頓着だった記念日のように、そいつが死んだことさえも忘れてしまうことが怖い。
何年後かの同窓会で、「そういえば」と初めて思い出すようなことは、最悪だ。
目を開け、眩しい室内灯に瞳孔が動く。
単行本、CD、洗濯物の奥、あいつの名前が印刷された紙が壁に立て掛けられている。
二ヶ月前の葬儀の帰り、電柱などに貼られる“○○家”の案内を警備員から貰ったのだ。
A4より一回り大きい厚紙に、筆文字で名字が書かれている。
こんなものが部屋に置いてあれば、嫌でも思い出してしまう。
いかんせん、主張が激しい。
もちろんこれが、宗教的に正しいのかは知らない。
でもあいつなら、笑ってくれそうな気がする。
「お前まじ馬鹿じゃの。わろた」
布団から起き上がり、洗濯物を畳み、CDを棚に収めた。
冷凍された米をレンジに入れ、ケトルで湯を沸かした。
そして片付いた部屋を眺めて、単行本をちらりと見る。
これはやっぱり、今じゃない。
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