東京 closing down

現実とフィクションと音楽。始まりのエンドロール。 Photo by shun nishimu

湿った夢

 

清流の音だ。

 

清らかに流れる、透明な川だ。

 

その澄んだ音に耳をあずけ、誘われるように、黒く湿った木々を、すり抜けるように歩いた。

 

斜面はないから、山ではなく林のような場所だろう。

 

足取りは軽く、いや、ほとんど浮いているようで、だけれども後ろを振り返れば、しっかりと足跡がついているのだから、確かに、地に足はついているんだろう。

 

不快さのない、涼やかな湿り気が漂いながらも、霧のようなもので視界は良くない。

 

踏みしめる足元で、落ちた枝がぽき、ぽき、と音を立てるのが面白かった。

 

ぽき、ぽき、と口に出してみて、しばらく笑った。

 

清流の音が近くなっていた。

 

川があれば、まず顔を洗おう。

 

そして、水を飲もう。

 

きっと美味しいはずだ。

 

そういえば、喉が渇いている。

 

突然、目の前に雄大な巨木が現れた。

 

艶々していて、けれども人を寄せ付けないような荘厳さを兼ねて、薄暗いなかに鎮座していた。

 

見上げてみても、その枝葉は霧に包まれていて、確認することができない。

 

幾重にも張った根は見るからに屈強そうで、その巨体を支えてきた勇ましさと年月を物語っている。

 

清流の音が一層大きくなっていた。

 

この巨木の裏に、川があるんだ。

 

回り込もうと巨木の周囲を歩いたが、いつまで歩いても、その裏には辿り着けなかった。

 

しばらく巨木を沿って歩いたが、相変わらず足元ではぽき、ぽき、と枝が折れ、その度に少しだけ笑って、喉の渇きを思い出した。

 

足元には太い根が四方に張っている。

 

清流の音はすぐ近くで鳴っているのに、目の前の巨木が邪魔をしている。

 

急に、無性に、腹がたってきた。

 

突発性の怒りは沸々と沸き上がり、足元で折れる枝にさえ怒髪を向け、そもそもの悪はこいつじゃないかと、立ちはだかる巨木を睨みつけた。

 

人も殴ったことがないのに、巨木をなぎ払うように右腕を振った。

 

腕が幹に衝突すると、拍子抜けするほど、するりとその巨体は身を翻した。

 

気がつけば、目の前には何もなく、文字通り、巨木はおろか、川も、湿った木も、何もなくなっていた。

 

振り返ってみれば、踏み鳴らした枝も、足跡も、そもそも林が、空間が消失していた。

 

虚空を眺める、とはよく言ったもので、この状況の場合、視界には虚空しかないのだから、それも仕方ないよなあと、別次元で虚空を眺める誰かに少しだけ同情して、虚空を眺めた。

 

立ちはだかっていたのは象徴だった。

 

最初から木なんて生えてない。

 

地面に張っていたのは自分の意地だった。

 

見上げても木の頂上が見えなかったのは、自分の将来の不透明さだった。

 

そして、巨木は自分自身だった。

 

立派に見せていても、見せかけでしかない。

 

自分探しの旅だろうか、でも、自分を探している自分が本当の自分なら、探しに行っているのは、何なのだろうか。

 

行ったことも見たこともない場所に、違う自分が待っているのだろうか。

 

そこに自分がいるとして、じゃあ、探しに行くのは、自分は一体誰なんだろう。

 

今の自分は、自分じゃないんだろうか。

 

目の前に巨木が現れた。

 

それを右腕ではらう。

 

後に残ったのは、古ぼけたブラウン管テレビだった。

 

ブラウン管の画面にはいわゆる、砂嵐が流れて、絶え間ないスノーノイズが聞こえた。

 

清流だと思っていた、ざーざーという音は、なるほど、その正体は、スノーノイズだった。

 

川の音と、確かに、似ているよなぁと、自嘲して、ポツンと置かれたブラウン管テレビは、昔、祖母の部屋に置いてあったものだと気付いた。

 

なんだ、と拍子抜けして、おばあちゃんだったんだと、懐かしい気持ちになった。

 

林の中を歩いたことが遠い昔のことのように思え、自分の勘違いがいやに可笑しくて、その場で砂嵐を眺めながら、一人で笑った。

 

いつまでも、一人で笑っていた。